第1話 (1)


 早朝。
 目覚めたアリスはベッドの脇に立って大きく伸びをした。いつものようにその場で軽く屈伸運動をして、両腕をぐるぐる回す。明るい窓の外では、鳥たちが楽しそうにちゅんちゅんと鳴いていた。さわやかな朝だった。今日も良く晴れそうだ、とアリスは思った。
 アリスは寝巻きを脱いでいつもの外出着に着替えた。薄青色の半袖のシャツに濃紺色のズボン。少し色()せかかったオレンジ色のバンダナをぎゅっと締める。
 よし、と気合を入れてから、アリスは朝食をとるために台所に向かった。

 *

 アリスは朝食を食べ終えると、背負い袋(リュックサック)かついで外に出た。早朝の日差しはやわらかく、空気はひんやりとしていた。
 アリスは扉をそっと閉めて、鍵をかけた。隣の部屋の住人はまだぐっすりと眠っているはずだった。アリスはなるべく足音を立てないように歩いた。
 背負い袋の中には、昼食用のパンとハムと水筒が入っている。朝食も同じメニューだったけれど仕方がない。そろそろ首都に買い出しに行かなくちゃ、とアリスは思っていた。
 季節は秋。涼しくて過ごしやすい、良い季節である。木々が少しずつ赤茶や黄色に色づき始め、これからの紅葉が楽しみだった。
 そんなことを考えながら早足で歩いていたアリスは、とある門の前でぴたりと足を止めてしまっていた。
 門には「念動力研究所」という看板が取り付けられている。その看板の下あたりに、何か白いものが丸くなっていた。それはもそもそと動いた後、ゆっくりと起き上がって、アリスに笑顔を向けた。
「よーアリス。お前、随分早起きなんだなー」
「うっわ」
 アリスは思わず大げさなリアクションで数歩飛び退すさっていた。
「エンリッジさんっ、こんなところで何してるんですか!」
 彼はアリスの隣室に住んでいる青年だった。名前はエンリッジという。今頃は部屋でてっきりぐっすり眠り込んでいるものだと思って、起こさないようにそっと出てきたというのに。
「うー。朝はだいぶ冷えこむようになってきたな。アリスお前良く半袖で平気だな」
 そう言うエンリッジは白のロングコートを羽織っていた。長い髪を後ろでひとつにくくっている。
「質問の答えになっていません」
「お前を待ち伏せてたんだよ」
「……やっぱり」
 アリスははあ、とため息をついた。
「今日も行くんだろ? 行くときは俺に声かけてけって言ってんのに、お前、いっつも一人で行っちまうからさ」
「だってエンリッジさんは、他の仕事もあって忙しいんでしょう?」
「今日は休み」
「だったら部屋でゆっくり休んで、好きなことしてのんびり――」
「んー。でもまあ、これが今、俺がやりたいことだからな」
 エンリッジは笑って言った。
「…………」
 アリスは無言ですたすたとエンリッジの脇を通り過ぎて門の外に出た。後ろからおい待てよっという声とこちらに駆けてくる足音が聞こえてくる。
「別に良いのに、ひとりだって」
 アリスは小さくつぶやいた。

 *

 アリスとエンリッジは念動力研究所の研修棟に住んでいる。同居しているというわけではなく、それぞれ個室を借りている。しかしアリスもエンリッジも、念動力の研究をするために研修棟に住んでいるわけではなかった。二人とも「念動力」は全く使えない体質だった。
 念動力研究所は、首都の東、乗用陸鳥ヴェクタで小一時間ほど離れた小高い丘の上に建っている。アリスとエンリッジは門の外に繋がれていた乗用陸鳥ヴェクタを一匹拝借して、首都への街道を進んでいた。目的地は首都、というわけではなかったが、せっかく念研出たんだから時間があったら首都にも寄っていこうな、という話をしながら街道を進んでいた。
 首都の南には広大な平原が広がっている。首都から街道に沿って平原を南に進めば小さな農村がある。そして、農村から川を越えて更に南には、「暗黒樹海」と呼ばれる、黒い大森林があった。
 乗用陸鳥ヴェクタの運転はエンリッジに任せ、アリスは南に広がる平原を眺めていた。地面のほとんどが草に覆われていて、所々に秋の花が咲いている。ぽつぽつと潅木かんぼくも生えている。『魔』のかげなんて欠片も見あたらない、平和でのどかな光景だった。まあ、このあたり――首都の近くにまで『魔』の手が伸びてしまったら、それはほとんど大陸の終わりを意味するのではないだろうか。
 ここからずっと南、暗黒樹海のあたりはけっこう酷い状態だと聞いている。暗黒樹海は『魔』の巣窟と言われている。『魔』はここ一年で激増した。そして『魔』の北進を止めるため、ついに「大陸統主」と大陸精鋭部隊が動き出していた。

 *

「あ」
 乗用陸鳥ヴェクタに揺られながら平原を眺めていたアリスは声を上げた。
「どうした、アリス?」
 手綱を握るエンリッジが尋ねてくる。アリスは南の平原のある一点を見つめながら口を開いた。
「発見しました」
「え?」
 エンリッジもアリスと同じ方向に視線を向けて、首を傾げた。
「俺には何も見えないけど……目が良いんだな、お前。どっちだ?」
「あっちです」
 二人を乗せた乗用陸鳥ヴェクタは街道を外れ、草原を南へ駆け出した。しばらく草の中をかき分けて進む。やがて、それはエンリッジの目にもはっきりと見えるようになってきた。
「止めて下さい」
 アリスは言って乗用陸鳥ヴェクタを止めてもらい、地面に下り立った。振り返ってエンリッジを見上げて、
「じゃあ、ちょっくら行ってきます」
「え?」
「エンリッジさんはここで待ってて下さいね」
「……あ、おいっ」
 エンリッジが何か言いかけたときには、既にアリスは走り出していた。後方でエンリッジが何か叫んでいるのが聞こえるが、構わず一直線に駆ける。
「待てよっ」
 真後ろでエンリッジの声がして、後ろから腕を掴まれた。アリスはバランスを崩して倒れそうになり、慌てて体勢を立て直して立ち止まった。
 エンリッジも立ち止まってアリスの腕を掴んだままぜいぜいと息を切らしていた。彼はアリスに追いつくため、全力疾走で駆けてきたらしい。アリスは体力を温存しながら走っていたので、それで追いつかれてしまったのだろう。
「エンリッジさん、乗用陸鳥ヴェクタは……」
 言いながらアリスは駆けてきた方向を見た。乗用陸鳥ヴェクタは草原の中、その場に大人しく座ってこちらを見ている。
 エンリッジは呼吸を落ち着けてから口を開いた。
「待ってろって言っといた。ほら、大人しく待ってるだろ」
「大丈夫かな……。乗用陸鳥ヴェクタやられたら帰れなくなりますよ」
乗用陸鳥ヴェクタのことは気にすんな、俺が気にして見てるから」
「……ていうか、」アリスは言葉を切ってエンリッジを見上げた。
「……ああ、」
 アリスの言いたいことを察したのか、皆まで言うなとアリスの言葉をさえぎって、エンリッジはコートのポケットをごそごそとあさって何かを取り出した。
「これ渡そうと思って、忘れてて」
「?」
 アリスは差し出されたそれをとりあえず受け取った。直径三センチくらいの丸い、平べったい、みがかれた白い石だった。端に穴を開けて紐を通してある。
「首飾り、ですか?」
「ああ。お守り」
 エンリッジはうなずいた。
 アリスは紐の輪っかに頭をくぐらせ、それを首から提げてみた。白い石が胸の辺りで揺れる。思ったより重くはない。
「効果あるんですか?」
「もちろん。大陸統主さまだって持ってるぜ、それ」
「へえー」
 ありがとうございます、とアリスは頭を下げた。良いって、とエンリッジは笑う。
「じゃあ、今度こそ行ってきます」
 エンリッジに笑みを返して、アリスは再び駆け出した。エンリッジの『気持ち』を素直に受け取れないほど、アリスはひねくれてはいなかった。
「そんなに急いで走るなって。疲れるだろ」
 背後からエンリッジの声と足音が聞こえてくる。足音は遠ざかる気配がない。アリスは立ち止まって振り返って、エンリッジがついてきていることを確認した。
「ええと……」
 アリスは困ったように切り出した。
「なんでついて来るんですか?」
「えー。ついてっちゃダメか?」
「ぶっちゃけますと、足手まといです」
 アリスが言い切ると、エンリッジはがっくりと肩を落とした。
「うう、傷つくなあ。確かにそうかもしんねーけどさ……」
「だって戦えないでしょう、エンリッジさん」
「そうでもねーぜ」
 エンリッジは再びコートのポケットをごそごそとあさって何かを取り出した。小さな銀色の物体をアリスに見せる。
「……オモチャですか?」
「失っ礼なヤツだなーお前ー。こう見えて、けっこう攻撃力あるんだぜ、これ」
 エンリッジは銀色の小さな『銃』を両手で構えて、前方に向けて撃つ真似をした。それは手のひらにすっぽりと収まるくらいの大きさしかなかった。
「念研最新作。小型化、軽量化に成功。……てかテスト品なんだけどな。レティに無料タダでもらったんだ」
「テスト品……」
 アリスは嫌な予感がしたが、まあ、エンリッジに銃を撃たせなければ良いだけの話だ。
「援護なんて要りませんよ。僕がひとりでカタつけますから。邪魔にだけはならないで下さいね、エンリッジさん」
「かっわいくねーヤツ……」
 エンリッジは不満そうにつぶやいた。



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