第1話 (2)


 草原の中、そこだけ草は生えていなかった。土の色は気味の悪い黒色だった。
 それは、遠目には枯れ木のようにも見えた。黒色の地面を突き破って、黒色の幹を真っ直ぐに伸ばし、黒色の枝を天に向けて伸ばしている。枝には緑の葉はひとつもついていなかった。
 その『樹』の高さは良くわからないが、見上げるほどのけっこうな高さはあった。しかしまだ、若いほうの樹だと思う。大木とか大樹とか言えるような雰囲気は備えていない。たぶん、生えてから数日、といったところだろう。とりあえず数日でこの大きさまで成長していることには驚いても良いかもしれない。
 幹のアリスの胸くらいの高さのところには、赤く輝くこぶのようなもの――『眼』が、ぎらりと光っていた。そして、その『樹』を、『眼』を守るように、三匹の獣が根元にいて、赤く輝く眼差しをアリスに向けていた。
 グルルルル、と獣が喉を鳴らした。四つ足でオオカミのような外見をしている。血のような赤い目、闇に染まったかのような黒ずんだ体毛。普通のオオカミの二、三倍の大きさ。魔物とか魔獣とか呼ばれる、危険な生き物だ。邪気に侵され、巨大化・凶暴化し、生あるものに見境なく襲いかかる――。
 オオカミを危険な魔獣に変えた『邪気』は、黒い樹から発せられていた。それはアリスをも魔の仲間に引き入れようと発せられているに違いなかった。おそらく普通の人間なら、この近さで樹から発せられる邪気を浴びたら、まず、気分が悪くなって倒れてしまうだろう。最悪、その場で『魔物』化してしまうかもしれない。
 しかし、アリスは平気だった。邪気を受け付けない体質だからだろうか。それでも多少は息苦しさを覚えたり、頭が痛くなったりもするのだが、今日はそんなことも無く、まったく普通に立っていられた。もしかしたら、エンリッジに貰った『お守り石』のお蔭かも知れない。――本当に効果あるんだ、と、アリスは少し感心した。
 南の「暗黒樹海」が「魔の巣窟」と言われているのは、このような邪気を発する樹々の所為せいだった。一昔前までの南の大森林は、それは美しい森林で、春には白や黄やピンクの花が咲き乱れ、夏には濃い緑の葉が涼しげな影を落とし、秋には暖かそうな色の紅葉が見られたものだった。しかし、いつしか森の樹々は暗黒に染まり、樹海の外にまでその勢力を伸ばそうとしていた。
 そして、時々、このような『樹』が、こうやってこのあたりの平原にまで生えてきてしまうのだ。暗黒樹海からこんなに遠く離れた地にまで。一体どういう仕組みなのか。風によって種子が運ばれてきているのだろうか。それとも……。
 とにかく、こんなのが首都の近くにまでぼこぼこ生えてきてもらっては困る。だから見つけ次第、アリスはそれを破壊することにしている。それが自分の使命なのだとアリスは思っている。邪気にあてられても平気な、自分にしかできないことなのだ。

 *

 三匹のオオカミのうちの一匹が、地を蹴ってアリスに飛び掛ってきた。大きくひらかれた口。ぎらぎらと赤く輝く双眸そうぼう。口からはとがった牙が覗く。
 アリスは少し身をかがめてから、オオカミと同じように地を蹴って跳躍した。両者の距離は一気に縮まり、オオカミの巨体が一瞬にして目の前に迫る。
「やあああっ!」
 アリスは気合の声を発すると、右足を思い切り蹴り上げた。右の靴底は正確にオオカミの鼻づらをとらえた。オオカミは高く鳴いて、鼻からどす黒い血を飛ばしながら吹っ飛んだ。そして地面に叩きつけられ、動かなくなった。
 残った二匹のオオカミも次々とアリスに襲い掛かってきた。アリスはオオカミよりも素早く動いてその攻撃をかわし、隙を見てこちらの蹴りを正確に叩き込んでやった。やがて、二匹のオオカミも最初の一匹と同じように地面に叩きつけられ、動かなくなった。
「ふう」
 アリスは小さく息をついた。疲労は全く感じなかった。むしろ、適度に身体を動かして気持ちが良いくらいだった。
 アリスは武器も防具も身につけていなかった。身体をできるだけ軽くして、相手より素早く動き、敵の攻撃をかいくぐって、こちらの必殺の蹴りを叩き込む。それがアリスの戦い方だった。
「おつかれー」
 背後からのん気な声が聞こえてきた。
「相変わらず強ぇえなあ、お前。ホントに俺の出番なかったな」
 エンリッジは所在無さげに、右手の銃を人差し指にはめてくるくると回していた。
「ざっとこんなもんです」
 アリスは得意げな笑みを浮かべた。
「っていうか、ひとりでカタつけられて良かった。最初からつける気でしたけど」
「まーたお前はそう言って無茶すっから……」
「だって、後方からエンリッジさんに変な銃でも撃たれちゃあ、勝てる戦いだって勝てなくなっちゃいますよ」
「…………」
 エンリッジは無言でアリスの後頭部を殴った。いたっ、と叫んでアリスは殴られた頭を抑える。
「ひどっ、エンリッジさん。本当のこと言っただけなのに」
「いーからさっさとやっつけて来いって、最後の仕上げ」
「はあーい」
 アリスはその場でアキレス腱を交互に伸ばす運動をしてから、軽く数回ジャンプして、『樹』目指して駆け出した。正確には、樹の赤いこぶ、『眼』を目指して。この『眼』が樹の唯一の弱点だった。これを破壊すれば、樹は姿を保てなくなる。
 アリスは走って幹の近くまで辿り着くと、そのまま速度を落とさずに、地面を踏み切って思い切りジャンプした。引いた右足に力を込めて、それを一気に振り上げ――
「?!」
 そのとき、アリスは背後で何か違和感を感じた。振り返って確認しようとすると、
「やれ! アリス!」
 エンリッジがすぐ近くで叫んだ。アリスはその声に後押しされるように、右足を一気に振り抜き、『眼』を蹴り壊した。赤いこぶは粉々に砕け散り、赤い破片を周囲にばらまいた。
 アリスは地面に下り立って振り返った。そこには、エンリッジがうつ伏せになって倒れていた。左手で右の脇腹をおさえている。白いコートのその部分が引き裂かれ、鮮血で赤く染まっている――
「エンリッジさんっ!」
 アリスは急いで駆け寄った。ひどい出血量だった。かなり深く傷つけられたに違いなかった。
 エンリッジが倒れている近くの地面を突き破って、黒く尖った枝のようなものが生えていた。根かもしれなかった。あの『樹』のものに違いなかった。樹も時々、枝や根を伸ばして攻撃を仕掛けてくることがある。油断した、とアリスはぎりと奥歯を噛みしめた。以前まえにも油断してやられたことがあったのに。
 多分、エンリッジはアリスの背後から襲いかかろうとしていた枝からアリスをかばって、倒れたのだ。自分がもう少し周囲に注意していれば、こんなことには……
 アリスは腹いせにその枝を思い切り蹴りつけた。『眼』を破壊されて既に動かなくなっていたそれはあっさりと折れ、黒い細かな粒子となって砂のように崩れ落ちた。
「うー、いってえ……」
 のん気な声が聞こえてきてそちらを見ると、エンリッジがゆっくりと身体を起こしているところだった。
「エンリッジさんっ、だっ、大丈夫ですか?」
「ああ……、さっきのはさすがにちょっと効いたかな。でもホラ、もう大丈夫」
 エンリッジはそう言うと、何事もなかったかのように普通に立ち上がってみせた。アリスは呆気あっけにとられてぽかんと、エンリッジを見上げた。
「ええと……、あの、あまり動かないほうが……」
「あれ? 言ってなかったっけ。俺ってこういう体質だから」
「……そうでしたっけ」
 そう言えば聞いたことがあったかもしれない……とアリスは記憶を手繰たぐってみた。しかし実際に見るのは初めてだったので、うろたえてしまったのだ。
 エンリッジは改めて彼の体質について話してくれた。『癒しの力』の持ち主である彼は、他人の怪我を癒すことができ、自分自身も強力な自己治癒力に守られている――と。
「だからあのくらい全然平気なんだ。そりゃあちょっとは痛いけど」
「……すみません、僕の所為で」
 アリスが頭を下げると、エンリッジはその頭をくしゃくしゃと掻き撫でてきた。見上げると、エンリッジは優しく笑いかけていた。
「というわけだから、さ」
 と、エンリッジは言った。
「俺は少なくともお前の足手まといにはならないし、お前が怪我したとしてもすぐに治してやれる。だから……ひとりで、生き急ぐように戦いに身を投じるのは、やめて欲しいんだ。……レティも心配してるから。危なっかしくて見てられないって」
「……姉ちゃんが……」
 アリスは小さくため息をついた。彼女の名前を出されると弱い。
 アリスは数週間前のある日のことを思い出していた。こんなふうに、ひとりで、平原のあちこちに立つ『樹』を破壊して回っていたときのことだった。一度だけドジって、けっこうな怪我を負ってしまったことがあった。ひとりで何とか応急処置を施して、頑張って念動力研究所まで帰り着いた。そして、門のところで力尽きて倒れてしまった。
 目が覚めたら、念研の医務室のベッドの上だった。エンリッジが治癒してくれたのだった。エンリッジは笑っていたけれど、レティは――『ジュリア姉ちゃん』は、怒っているような泣いているような顔をして、無言でアリスをじっと見つめていたっけ……。
「さてと……んじゃ、そろそろ帰るか」
 と、エンリッジがアリスに声をかけてきた。
「首都寄って食料とか買って……ああ、そういやこのコートもう駄目だよなあ。新しいの買わねーと……」
「……は? 何言ってるんですか、エンリッジさん」
 アリスはエンリッジを見上げて言った。
「え」
「まだ昼前じゃないですか。次行きましょう、次」
「え……『次』があるのか?」
「これからが本番です。午前中に二本、午後に三本、最低五本はやっつける。これが基本です」
「基本て……つうか、午後の部があるのか? 俺弁当持ってきてねーぞ」
「それは……ご愁傷さまです」
「…………。どこでそんな言葉覚えたんだ……」
 はあ、とエンリッジは大きくため息をついた。
 涼しい秋の風が吹いてきて、足元の背の高い草がさわさわと鳴った。アリスは元気良く、エンリッジは肩を落として、二人で並んで歩き出した。遠くで待っている乗用陸鳥ヴェクタ目指して。



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