リネッタ=アストグラードはひとりで山道を歩いていた。空は雲ひとつない青空。絶好のハイキング日和。しかしリネッタの心と足取りは重かった。歩みはだんだんゆっくりになっていき、やがて立ち止まってしまった。足が痛くて、その場に座り込みたくなったが、そうしたら二度と立てなくなってしまうだろう。背中に背負う荷物はずっしりと重い。リュックサックの重みが肩に食い込む。
リスティルの兄貴のほうが、とリネッタは思う。リネッタよりも重い荷物を背負っているはずのリスティルの姿は見えない。おそらく、リネッタのだいぶ先を歩いているのだろう。
(こんなはずじゃなかったのに)
今日は一番上の兄サイナスと、二番目の兄リスティル、
そしてアストグラード一族の親交を深めようといとこ達を集めた。たった四人のいとこなんだから、と。
そうは言ってもリネッタにとっての従兄はウィンズム一人だけで、あとの二人は兄弟だ。(それはサイナスもリスティルも同じなはずだ) そしてリネッタは、この目つきの悪い銀髪の少年がちょっと苦手だった。いつも無表情でむすっとしていて、自分から話しかけてくることはほとんどない。サイナスやリスティルやリネッタが何度も話しかけるとようやく聞き取りにくい小さな声でぼそぼそと答える。基本的に無口なのだ。リネッタは面白くないのでむやみに話しかけることはしなくなった。コイツ人生何が楽しいんだろう、と他人事ながら心配になってしまう。それでも一応今回のハイキングの誘いには乗ってきてくれた。サイナスに無理やりつき合わされているのかもしれないが。相変わらずのむすっとした顔でスタスタと歩くウィンズムは楽しくなさそうに見える。
リネッタはサイナスのやることならきっと楽しいことだろうと信じて疑わなかった。サイナスはいつも明るく楽しい兄だった。そして色々な企画でリネッタを喜ばせてくれる。
二番目の兄リスティルが今日のハイキングに乗り気だったのは少々意外だった。リスティルは明らかにアウトドア派ではなくインドア派で、室内でゆっくりと本を読んでいることが多かった。リネッタは小さい頃から男の子に混じって走り回っていたが、リネッタが外で遊ぼうと誘うとリスティルはいつも「私体力ないですから」とやんわりと断っていた。リネッタはこのマイペースな兄よりは自分のほうが体力はあると思いこんでいた。
そういえば、いつだったか、ワールドアカデミーの一番の親友キリアに言われたことがある。
「リネッタ、自分のこと僕って言うのやめなよ。だから『リネ太』なんてあだ名ついちゃうのよ。せっかく可愛いのに勿体ない」
リネッタは素直に「わかった」とうなずき、それ以来自分のことを僕と言うのをやめた。キリアの言うことなら間違いない、キリアはいつも真っ直ぐで正しいから。
刃葉岳には二日かけて登る。一日目の今日は四人で朝早く家を出て
リスティルは何故かリネッタの二倍くらいの重そうな登山用リュックサックを背負って歩いていた。山道を登りながら、時々「うわあ」と小さく歓声をあげて立ち止まる。
「どうしたの」
「見て下さいリネッタ。ほら、ウィンズムも」
リスティルはその場にしゃがみこむと、リュックサックの中からハードカバーの重そうなカラー図鑑を取り出してページを繰った。
「ヤイバアサツユですよ! 薄紫色の小さな花が可憐ですねえ」
リスティルは草陰に隠れるようにひっそりと咲く野草に感激の声を上げた。図鑑の一ページを指しながらリネッタを見上げて言う。
「ほら。『キグリス大草本図鑑』と同じでしょう」
「……リスティル。それ逆だ」
図鑑をのぞき込むリネッタの背後で、ウィンズムがボソリとつぶやいた。
「ははっ。たまには外出るのもいいもんだろリスティル」
少し先を歩いていたサイナスが振り返ってリスティルに呼びかける。
「ええ。良いですね」
リスティルはよいしょ、と言って背中の荷物が重そうに立ち上がった。
「リス兄。それ、何が入ってるの」
リネッタはリュックサックを指して聞いてみた。
「キグリス大草本図鑑が上中下三巻、あとキグリス大樹木図鑑が上下二巻ですよ」
「うわあ。それで山登るの無茶だよリス兄」
「そうでしょうか」
「私の荷物と取り替えっこしよ、ね。私の方が体力あるからさ」
リスティルは断ったが、リネッタは半ば強引にリスティルの荷物を引き受けて背負い、自分の小さめのリュックサックをリスティルに押し付けた。
「あーあ。知らねーぞ。最初から飛ばすと後でばてるぞ」
サイナスがニヤニヤしながらリネッタに言う。
「大丈夫だよ、このくらい」
かなり重めの荷物を背負ってリネッタは元気良く坂道を登り始めた。
しかし、サイナスの言う通りだった。サイナス、リスティル、ウィンズム、リネッタの順で歩いていたのだが、リネッタは最後尾でだんだん兄たちの歩くペースについていけなくなってきた。ウィンズムの姿がどんどん遠く離れていく。息が苦しく、足が痛い。
リネッタは完全にひとりぼっちになってしまった。ひとりでとぼとぼ歩いていると、サイナスとリスティルの姿が見えてきた。途中で待っていてくれたのだろう。ウィンズムの姿が見えないのは、彼のことだからひとりで先に行ってしまったのだろう。
「疲れたでしょう。やっぱり私が持ちますよ、リネッタ」
そう言ってリスティルは図鑑五冊が入ったリュックサックをリネッタから受け取った。リネッタは何も言えずにぜいぜいと息を切らしていた。
自分の荷物が軽くなっても、最初でばててしまったリネッタのペースは上がらなかった。自分より重い荷物を背負っているはずの兄たちは速い。それに比べて自分は少し登っただけですぐ息が切れて立ち止まって休みたくなる。またあっと言う間にひとりになってしまった。基礎体力の違いをまざまざと見せつけられた。サイナスの兄貴はともかく、リスティルの兄貴にも負けちゃうなんて。
「あれ」
リネッタは目を疑った。登山道のど真ん中で、腕組みして立っている軽装の少年、長めの銀髪を後ろで一つにくくっている……ウィンズム? 彼はサイナスたちよりもさらに先を行っているはずなのだが。
「まさか……待っててくれたの?」
けっこういいとこあるじゃんと思いながら、リネッタはウィンズムに追いついて聞いてみた。
「……お前を待っていたわけではない」
ウィンズムはぽつりと答えた。
「じゃあ何やってるの」
「……」
ウィンズムは答えない。
「何やってるの、こんなところで」
リネッタはもう一度聞いてみる。
「……別に何だっていいだろ。お前には関係ない」
「ふーん……」
いつもならちょっとむっとするところだが、リネッタは言い返す元気もなかったし、コイツはこういうヤツなんだからと割り切っていたので、軽く受け流すことにした。
「……早く行ってやれ。あんまり遅いと過保護のサイナスが心配するぞ」
とウィンズム。
「か、過保護って。っていうか……早く行けるもんなら行ってるって……」
「……疲れたか」
「うん……」
「辛いか、山登り」
「……」
リネッタは言葉に詰まった。数日前からけっこう楽しみにしていた今日のハイキング。サイナスが「山は良いぞー」と言うものだから。それがどうしてこんなに辛いのだろう。兄たちに置いていかれて、ひとりぼっちで坂道を登っているからだろうか。
「ウィンズムは楽しい? 山登り」
リネッタは聞いてみる。
「……わりとな」
ウィンズムはそう言ってちょっと笑った。リネッタはびっくりした。
「……今のお喋りでもう疲れは取れただろう。お前は先に行け」
「ウィンズムは」
「もう少ししたら行く」
「何で。ウィンズム元気でしょ。一緒に行こうよ」
ウィンズムがいつもより多く喋っているのがなんだか嬉しくて、リネッタはそう言ってみた。ひとりぼっちで登るより、コイツと喋りながら登った方が絶対に楽しいに決まっている。
「お前と一緒には行かない」
「なんで!」
「ひとりで色々考えごとしながら一歩一歩登るのが楽しいんだ」
「……そうなんだ」
リネッタは仕方なく「じゃあ、お先に」と言ってひとりで歩き始めた。
(アイツ本当にひとりが好きなんだなあ)
こういうのを価値観の違いというのだろうか。
(色々考えごとしながら……かあ。アイツ、本当に日々何考えながら生きているんだろう)
リネッタはウィンズムについて色々考えながら一歩一歩山道を登る。
しばらく歩いてからリネッタは振り返った。まだウィンズムの姿は見えない。
(アイツが本気出して追ってくるなら私またあっと言う間に抜かされて離されて、またひとりになっちゃうのかあ……)
でも今は、ウィンズムは私の後ろにいる。サイナスの兄貴とリスティルの兄貴が前を行き、ウィンズムは後ろ。私は真ん中を歩いている。三人の姿は見えないけれど、私はひとりじゃない。
突然、踏みしめる地面がふわふわで軟らかいことに気が付いた。木々の明るい緑。やさしい木漏れ日。さわやかな空気。草の匂い。小鳥たちがキュンキュンと鳴いている。
(あれ……何だか楽しい)
息も苦しくない。足取りも軽い。このままどこまでも歩いて行けそうな。