R I N E T T A ( 2 )


「あっ」
 ひとりで山道を登っていたリネッタは小さく呟いて息を呑んでいた。
 目の前に、大きな黒い生き物が二本足で仁王立ちになっていた。そいつはリネッタが見上げるほどの大きさで、サイナスより頭ふたつみっつ分は背が高くて、幅もある。足も腕も胴も太い。体中黒い毛に覆われている。赤く輝く二つの鋭い目がこちらを見ている。
 ブラックベア。山奥に生息していて、生き物を襲って食べる。人も良く襲われると聞く。
 逃げなきゃ、とリネッタは思った。一応護身用の短剣は持っているが、たったひとりでこんなのに立ち向かっていく趣味はない。(サイナスの兄貴ならともかく) どう考えたってリネッタひとりで何とかなる相手ではない。
 というかリネッタは至近距離でブラックベアに出くわしてしまってかなり動揺していた。ワールドアカデミーで「山道でブラックベアに出会ったら」という講義があったような気がするが、頭の中真っ白で何も出てこなかった。とにかくこの場から逃げたくて、リネッタはブラックベアに背を向けて全速力で逃げ出した。
 走り出してすぐ。五、六歩目の着地で、リネッタはいきなりバランスを崩した。片側が崖の山道で、踏みしめた崖側の地面が少し崩れたのだ。リネッタの体は崖側に大きく傾く。重力に引っ張られて、落ち……る?
 突然リネッタの体は止まった。
「?!」
 見上げるとウィンズムが崖から身を乗り出して落ちそうになっているリネッタの手首を掴んで繋ぎとめていた。
「ウィンズム……?」
 自分が落ちそうになっていることより、リネッタにとってはウィンズムがそこにいること、自分を助けるために手を伸ばしていることのほうが非現実的だった。
「なに、やってんの……」
 リネッタの声はかすれた。
「ウィンズム逃げて!! すぐそこにブラックベアが……私なんかに構わないで逃げてよっ……」
 リネッタは言葉を詰まらせながら叫んだ。
「……」
 ウィンズムは無言で重力に逆らう力でリネッタを引っ張り上げた。こんな細腕のどこに?というくらい凄い力で。
「ブラックベアはっ」
 声に出して確認するまでもなく、ブラックベアは順調に二人に迫ってきていた。二本の足で交互に、一歩一歩、確実に。近付いてくる速度は未だゆっくりだが、本気を出したら四つ足で走ってかなりのスピードを出せるという。
「に、逃げようウィンズム」
 ウィンズムはリネッタの言葉を無視してリネッタの前に出た。懐から二本のナイフを取り出す。次の瞬間、何かが空を切った。ブラックベアが声を上げる。はっとして見ると、ブラックベアの鼻先に一本のナイフが突き立っていた。
 ブラックベアとウィンズムの間にはまだだいぶ距離がある。この距離で投げて、あんなに正確に?
 とリネッタが思ったとき、ウィンズムの姿はそこにはなかった。ウィンズムは地面を蹴って駆け出していた。ブラックベアの巨体目がけてまっすぐに。
 無茶だ、とリネッタは声にならない悲鳴をあげた。
 ブラックベアは突然の痛みに怒っていた。鼻先に刺さったナイフを抜こうと闇雲に太い両腕を振り回している。両腕の先には太い爪が尖っている。あの爪でがつんとやられたらおしまいだ。そこに突っ込んでいくウィンズム。右腕に握り締めたナイフをを大きく振りかぶる。
 リネッタは思わず目を閉じた。
 どさ、と何かが崩れ落ちるような音。リネッタはそっと目を開けた。ブラックベアの黒い巨体が地面に倒れていた。首のあたりにナイフが突き刺さっていて、大量の血が流れ出ている。
 リネッタは気分が悪くなって頭がくらくらしてその場に座り込んでしまった。
「大丈夫か」
 頭上でウィンズムの声がした。
「うん……」
 呟いてリネッタはよろよろと立ち上がる。
「大丈夫なら行くぞ」
 ウィンズムはもうスタスタと歩き始めていた。
「ま、待ってよウィンズム」
 リネッタは慌てて後を追う。ブラックベアの死骸を見ないようにしながらそのそばを通り過ぎた。
「さ、さっきはありがと。助けてくれて……」
 リネッタは一生懸命早足で歩きながらウィンズムの後ろから話しかけた。
「……」
「え、えーと。……すっごいね、ウィンズムって強いんだね。ブラックベア倒しちゃうなんて」
「……ありゃザコだ」
「ザコ?! へええ、言い切ったね」
「……俺には夢があるからな」
「夢?!」
 どうしちゃったんだろう。今日のウィンズムは本当に良く喋る。というか、彼の口から「夢」という言葉が飛び出すとは思わなかった。
(コイツ……。何も考えていないようで、ちゃんと色々考えながら生きてたんだ……)
「夢かあ……。私にもあるよ、夢。多分ウィンズムと同じだよね。父さまみたいな、ファーランドおじさまみたいな、立派な宮廷騎士になるんだ。一緒に頑張ろうね」
「……お前はひとりで頑張れ」
 ウィンズムはボソリと呟くと、急に歩くスピードを上げた。リネッタとウィンズムの距離は一気に離れる。待ってよ、と言ったところでコイツは待ってくれないだろう。リネッタは必死でついていった。顔を上げて、ウィンズムの後姿を見据えながら。
 しかしウィンズムの足は速く、あっと言う間に離されて、リネッタはまたひとりぼっちになってしまった。
(……お前はひとりで頑張れ、かあ)
 リネッタはウィンズムの言葉を繰り返してみた。
 ウィンズムがそう言うのならひとりで頑張ろう。ひとりで一生懸命歩いて、ウィンズムや兄貴たちに追いつこう。でもウィンズム、私はひとりより、二人の方が良いよ。ウィンズムと一緒に、頑張りたかったのに。
 そんなことをぐるぐる考えながらリネッタは山道を歩いていった。ペースが掴めてきたのか、だいぶ良いスピードで歩けるようになっていた。山歩きが楽しくなってきた。
 しばらく歩いていると、木々の緑が開けて、前方に赤い屋根が見えてきた。あれがサイナスが言っていた今晩泊まる山小屋だろう。
 小さな木造の無人小屋の中では、ボロボロのサイナスが板間いたまでひっくりかえっていた。
「ブラックベアに襲われたあ?!」
 リネッタの話を聞いて、サイナスは悔しそうに大声を上げた。
「くっそ、一匹討ちもらしてたかっ!」
「一時は五匹くらいに囲まれていくらサイ兄でもやばかったんですよ」
 水筒の緑茶をすすりながらリスティルが言う。
「あいつら見かけによらず素早いですからね」
「ありがとなーリスティル。お前の援護がなかったらマジやばかったかもな」
「いえいえ、サイ兄こそ。私ひとりだったら簡単に殺られていたでしょうから」
「ちょっとちょっと、私の知らないところでそんな大ピンチだったわけ、兄貴たち」
「リネッター置いてっちゃってごめんなー」
 サイナスは起き上がってリネッタの頭をぐりぐりしながら言った。
「兄ちゃんとしては置いてくのは忍びなかったんだが。お前が歩く前に『BB山道』の危険を少しでも減らしてやりたくてさ」
「……知ってたんだね。登山道にブラックベアが出るって」
「ぎくうっ。ま、みんな無事だったんだから結果オーライじゃないかっ」
「それにしてもやりますねウィンズムも」
 にこにことリスティルが言った。
「リネッタの話を聞く限りでは、めちゃくちゃかっこいいではないですか」
「ウィンズムは?」
 小屋の中には兄たちの姿しか見えなかったので、リネッタは聞いてみた。
「ああ、ウィンズムなら鳥の……じゃなくて水汲みに行ったぜ」とサイナス。
「じゃなくて、って何」
 リネッタは兄に突っ込む。
「しまったついうっかり。口止めされてたんだっけ」
「別に良いではないですか」とリスティルが言う。
「素敵な趣味じゃないですか。幻の『鳥類大百科・補の1、補の2』まで持ってきているとは思いませんでした。完敗です」
「鳥?!」
 ウィンズムにそんな趣味があったなんて初耳だった。……というより、兄たちが私の知らないウィンズムのことを知っているなんて、なんか、面白くない。アイツ、私には話さないで兄貴たちだけに……
「私も行ってくる」
 と言ってリネッタは立ち上がった。
「どこへ?」
「水汲み」
 リネッタは何も持たずに山小屋を飛び出した。
 やがて急に辺りが暗くなり始めたのでリネッタは山小屋に戻った。結局ウィンズムは見つけられなかった。小屋の外ではサイナスがバーナーでお湯を沸かしていた。リスティルがまな板でにんじんを切り、隣でウィンズムがじゃがいもの皮をいている。
「今夜はカレーだぞー」
 サイナスが楽しそうに言う。
「暗くなる前に切り終わらなくては」とリスティル。
「リネッタ、あなたも手伝って下さい」
「ウィンズム、すっごーい」リネッタは感動して言った。
「強いだけじゃなくて器用なんだね。あ、バードウォッチングはどうだった?」
「……喋ったな、サイナス」
 ウィンズムは半眼でサイナスをにらむ。
「おいおいリスティルはおとがめなしかぁ」
「リネッタにだけ内緒って方が不自然ですよ。……ふふふ、さてはウィンズム」
「……なんだその笑みは」
「さてはって何?! リス兄!」
 カレーが出来上がった頃には外はもうすっかり暗くなっていた。ランプの灯りをともして、四人はカレーを食べた。四人とも食べながら良く喋った。夕食後は星を眺めながら語り合った。
 語り疲れた四人は小屋に入って眠ることにした。それぞれ寝袋を持ってきている。四人はそれほど広くない板間いたまの思い思いの場所に寝袋を広げて中に入った。リネッタは寝袋の中で暗い天井を見上げながら、今日のことはキリアに報告しなきゃ、と思っていた。……私、好きな人ができたんだよって。しかも同じ部屋に泊まっちゃったんだよって。ドキドキして眠れなかったよって……
 そんなことを考えながら、リネッタは眠りに落ちていった。


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