水 の 迷 宮 ( 4 )


 バートとサラを包み込んでいた白い霧が薄らいでいった。まだ少し白く霞む空間には、二人の男性が立っていた。サラの父、ピアン王カシス。そして、
「父親……」
 バートの父、クラリス。
「お父さま……」
 二組の父子はお互い見つめ合ったまましばらく動かなかった。
「……おい、父親」
 沈黙を破ったのはバートだった。
「今の話、本当なのか?」
「…………」
 クラリスはバートを見つめたまま答えなかった。バートはサラの手を離すと腰の剣に手をかけた。
「約束って何だよ! ピアン王は知ってたっていうのかよ!」
「…………」
 クラリスは答えない。
「俺はまだてめーを許しちゃいねーんだぜ! この間は負けたけど今度は負けねー!」
 バートは叫んだ。
 ピアン王が一歩前に出た。腰の剣を抜き放つ。
「王……」
 ピアン王はわずかに笑みを浮かべた。
『できれば聞かれたくはなかったな……。バート君。サラ……』
 ピアン王は剣をバートに向けた。
「お父さま……」
 バートの後ろでサラが呟く。
 王に剣を突きつけられ、思わずバートも剣を抜いてしまった。相手は自分が属する国の王。サラの父親。彼に剣を向けることだけは絶対に許されないのに――
「聞かれたからには、仕方ない」
 王は素早く間合いを詰めて剣を繰り出してきた。ダメだ、とバートは思った。この人に剣を向けてはならない。そんな思いとは裏腹に、身体は反射的に動こうとしていた。――が、バートは体中が凍りついたように動くことができなかった。ここの空間は寒すぎて、いつもの調子が出ない……
 ピアン王の剣は、あっさりとバートの胸を貫いた。バートは声にならない声を上げて、右手に握った剣を取り落とした。
「バート!」
 サラが悲鳴を上げた。その声を遠くで聞きながら、バートの意識は白い闇に堕ちていった。

 *

 はっと気が付くと、キリアは一人で見知らぬ空間に立っていた。上下左右は氷のような天井と床と壁に囲まれていた。空気が冷たい。前方には果てしなく延びる通路。
「レティさん?!」
 キリアは叫んで周囲を見回した。返事は返ってこなかった。レティとはついさっきまで一緒にいたのに。同じボートに乗って、同じ渦に飲まれたのに。
「リーガル湖に時々出現する渦、それが迷宮への入口になっている」
 とレティは言った。キリアとレティは研究所から折りたたみ式ボートを桟橋まで運び、そこからリーガル湖に漕ぎ出した。
(そんな……)
 レティがこの場にいないことを知り、キリアは軽いパニックに陥りかけた。
(落ち着け。ここは『迷宮』なんだから)
 キリアは自分に言い聞かせ、迷宮に入る前に、レティが言っていた言葉を思い出した。
『迷宮の中では、現実と夢、真実と幻、事実と虚構が渾然一体となって存在している。大切なことは、何を見せられても、自分を見失わないこと――。迷路のつくり自体は単純だ。通路はやたら長いが……マッピングも特に必要ないくらいだ』
「どうしよう」
 キリアは声に出して言ってみた。声は氷のような空間に反響して自分の声ではないみたいに聞こえた。どうしよう、と言ってみたところで、選択肢としては留まるか進むかしかなく、この二択だったらどう考えても留まる、という選択はあり得なかった。
 キリアは通路を進むことにした。
 果ての見えない単調な通路を一人で延々と歩いた。気の遠くなるほどの長い時間が経過したように思えた。不安がなかったといえば嘘になるが、キリアはほとんど意地で歩みは止めなかった。疲れきって本当に一歩も動けなくなるまでは歩ききってやろうと背筋を伸ばして歩き続けた。
 キリアはバートとサラとリィルのことを思った。彼らも自分と同じように、こうして歩いているのだろうか。湖で同時に消えたバートとサラははぐれていないだろうか、自分とレティのように。
「バート! サラ! リィル!」
 永遠かと思われる沈黙に耐えられなくなってキリアは叫んだ。そして改めて目的を確認した。自分がこの迷宮に入ったのは、彼ら三人を見つけ、一緒に元の世界に帰るためなのだ。
「!」
 前方に何かが見えた。キリアは早足で近付く。通路が行き止まりになっていて、金属製の扉がはめ込まれていた。
(まさか、水の扉?)
 ふと風の扉のことが思い出された。あのときは自分が開けた。でも、これが水の扉だとしたらキリアには開けられない。ここで完全な行き止まりということになってしまう。
 キリアは諦め半分で扉を押してみた。しかし、扉はあっさりと開いた。白い冷気が流れ出てくる。
(開いた……ってことは、これは『扉』じゃない?)
 キリアは扉の中に足を踏み入れた。白い霧が濃くてほとんど何も見えない。でも、進むしかない。何となくさっきまで歩いていた通路よりは、何かに近付いたような気がする。
『キリアっ?!』
 ふいに自分を呼ぶ声が聞こえた。キリアははっとして動きを止めた。そう遠くないところから聞こえた。
「リィル?!」
 キリアは叫んだ。
「どこにいるの?! 見えない!」
 キリアは周囲を見回した。白い霧が濃くて視界が悪い。振り返ってみたが、さっきの金属製の扉もどこにも見えない。これってほとんど遭難ってやつでは、と思う。
『キリア、危ないっ!』
「え……?」
 突然、キリアは横から突き飛ばされた。思わず小さく声を上げた。右腕をついて床に倒れる。
「痛……」
 呟きながらも、それほどの怪我ではなく、キリアはすぐに身体を起こして顔を上げた。
 目の前には茶色の髪の少年の後姿があった。
「キリア、大丈夫?」
 キリアに背を向けたまま、振り返らずに尋ねてくる。
「全然大丈夫!」キリアはすぐに答えた。
「! こっち?!」
 右斜め前方からいくつもの氷の刃が飛んできた。キリアをかばうような位置に立つ茶色の髪の少年は右手をかざして水の精霊を召喚する。少年の「水」と氷の刃が空中でぶつかり合い、青い輝きを放った。相殺し切れなかった刃が少年の左腕を軽く切りつけた。
「リィル!」
 キリアは思わず声を上げた。リィルは振り返って少し笑ってみせた。
「この霧がやっかいだよなー。なんで向こうは正確にこっち狙えるんだろう。こっちからは何も見えないのに。これってすっごいハンデだよな」
「リィル、一体何がどうなってるの?」
 状況がいまいち呑み込めなくてキリアは尋ねた。
「見ての通りだよ」
 リィルは少し真剣な表情になって言った。
「俺、狙われてるんだ。キリアもえらいところに来ちゃって……」
「狙われてるって……大丈夫なの?」
「あんまし大丈夫じゃないかもしれない」
 答えるリィルは身体中にかすり傷を負っているようだった。
「だから悪いけど、キリア、ちょっと席外しててくれないかな?」
「え? どういうこと」
「逃げてってこと。俺、キリアをかばいながらあの人の攻撃を防ぎきる自信ない」
「……何それ」
 リィルの発言にキリアはかなりむっとした。リィルが怪我していなかったら一発くらい叩いてやってたかもしれない。
「あのねえリィル……」
 キリアは大きく息を吐き出した。
「そりゃないでしょ! 私はね、迷宮に飲みこまれたあんたらを探しに来たのよ。あんた置いて逃げられるわけないでしょ! それに誰がかばってなんて頼んだ? そんなことされて私が喜ぶとでも思ってるの? 自分の身くらい自分で守れるわよ、バカにしないで!」
 今までわだかまっていたものを吐き出すようにキリアは叫んだ。最後はかなりきつい口調になってしまった。リィルはキリアを見つめて驚いたような顔をして絶句している。
「そうか……そうだよな、ごめん……」
 リィルが小さくつぶやいた。言い過ぎた、と思ってキリアは何となく気まずくなってしまった。
「……ううん、こっちこそ」
 キリアは気を取り直して明るく言った。
「リィル、さっき『ハンデ』って言ってたでしょ。それ、無くしてあげましょうか?」
「え?」
「この霧がハンデなんでしょ。だから……!」
 キリアは腕輪をはめた右手を高く掲げ、風の精霊を召喚した。周囲に巻き起こった風が空気中に浮かぶ白い細かな粒子を吹き飛ばしていった。真っ白だった空間は、段々遠くまで見通せるようになり……
「?!」
 キリアは目を疑った。心臓がどくんと音を立てる。黒いスーツ姿の男性が立っていた。おそらく、彼が、リィルに向けて氷の刃を放った張本人。
「エニィルさん……?」
 エニィルは無表情でこちらを見据えている。



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