水 の 迷 宮 ( 5 )


「キリアちゃん……」
 エニィルはキリアのほうへ一歩一歩、ゆっくりと近付いてきた。
「リィルの言うとおりだ。君は本当にこの場から離脱したほうが良い」
「エニィルさん……」
 キリアは臆せずエニィルの瞳を見据えて言った。
「貴方なんですか? 氷の刃でリィルに攻撃してたのは」
「そうだよ」
 エニィルは無表情で言い放った。
「な、どうしてそんなこと……。何で親子で戦わなくちゃならないんですかっ」
「それはね、キリアちゃん」
 エニィルはわずかに笑みを浮かべた。
「水の大精霊”流水ルスイ”の力を手に入れられるのは、僕かリィル、どちらか一人だけだから」
「あ……」
 確かにキリアは、”流水ルスイ”の力を手に入れるのはエニィルとリィル、どちらになるのだろうとちらりと考えたことはあった。”ホノオ”の力はバートが、”風雅フウガ”の力はキリアが手に入れた。”風雅フウガ”については、おじいちゃん――大賢者キルディアスがそう指示したからだ。だから、”流水ルスイ”の力を得るのはリィルになるのではないかとキリアは何となく予想していた。
 しかし、今回の場合は、エニィルも”流水ルスイ”の力を手に入れたがっているということなのだろうか。それにしても、
「なんで親子で傷つけ合わなくちゃならないんですか!」
 キリアは叫んだ。バートとクラリスのことが頭をかすめる。父親のことを「敵だ」というバート、彼らの関係には心が痛んだ。しかし、まさかリィルとエニィルまで……。せめて彼らには……彼らが戦う姿なんて見たくない。
「そんなこと……エニィルさんとリィルで話し合いで決めれば良いじゃないですか」
「話し合ったって無駄だよ、きっとお互い譲らないから」
 エニィルが答える。え?、とキリアは背後のリィルを振り返った。
「そういうこと」
 リィルは真顔で小さくうなずいた。
「この子は言い出したらきかないし負けず嫌いだからね」
 とエニィルは言う。
「だから、実力でわからせることにしたんだ。どちらが”流水ルスイ”の力を得るにふさわしいかを」
「エニィルさん……」
「さあ、キリアちゃんは早くこの場から立ち去るんだ」
 エニィルはキリアを見て言った。
「さもないと、僕はきっと卑怯な手を使ってしまう……」
 エニィルは右手を掲げた。攻撃が来る、と思ってキリアは身構えた。周囲の空気が一気に冷えた。さっきキリアが晴らしたばかりの白い霧が再び濃くなる。
(そうか、エニィルさんは「水」を使えるんだから、この霧はエニィルさんが)
「キリア、気をつけて!」
 リィルが叫ぶ。
「!」
 左のほうから風を切って何かが飛んできた。キリアはとっさに風の精霊を召喚して放った。
「キリア!」
「こっちは大丈夫だから! リィルこそ気をつけ……」
 キリアが言い終わらないうちにリィルのほうに氷の刃の攻撃が飛んできた。キリアに気を取られていたのかリィルは避けきれない。氷の刃はリィルの脇腹を深く傷つけた。リィルは傷をかばって膝をつく。
「リィルっ!」
 キリアはリィルのもとへ駆け寄った。
「来るな……てのに……」
 リィルが小さく呻いた。傷が相当痛むらしく顔をしかめて息を切らせている。
「わかっただろ……。悪いのはキリアじゃなくて俺が未熟だから……。それに、これは俺と父さんの問題だから……」
「そんなことより手当てしないとっ」
「そんな暇ないよ」
 リィルが言い終わらないうちに、再び風を切って氷の刃が飛んできた。
「!」
 キリアは白い虚空に向けて正確に風の精霊をぶつけた。氷の刃が青い輝きを放って消滅する。
「父さんがキリアを傷つけるはずはない……キリアへの攻撃は全部フェイント……」
 リィルが小さく呟いた。
「わかってんじゃない」
「理屈ではね」
 リィルは大きく息をつく。
「じゃあ、作戦立ててかかりましょ」
 と、キリアは言った。
「エニィルさんは霧で姿を隠して攻撃してくるのね。でも私の風なら霧を晴らすことができる。そしたら……」
 そこまで言ってキリアははっとあることに気付いた。霧が晴れて、エニィルの姿が見えて、そしたら……?
 なんで親子で傷つけ合わなくちゃならないんですか、とキリアは叫んだ。しかし、もしかしたら、相手を傷つけようとしているのはエニィルのほうだけではないのか。リィルは決して反撃しようとはしていない。
「リィル……」
 キリアはリィルを見て尋ねた。
「作戦……っていうか、勝算、あるの?」
「さあ……?」
 案の定、リィルは言葉をにごす。
「あなたはエニィルさんを倒そうとは思ってないんでしょ」
「だって父さんに攻撃なんて……できないよ、色々な意味で」
「でもそしたら、一方的にやられるだけじゃない。っていうか何むきになってんの。エニィルさん倒す気ないんなら、譲ってあげれば良いじゃない」
「それは、できない」
 リィルはきっぱりと言った。
「リィル……どうして」
「”流水ルスイ”の力は俺が手に入れる。父さんに渡すわけにはいかないんだ」
 リィルの落ち着いた言葉には静かな決意が込められていた。キリアは何も言い返せなかった。
「大丈夫、俺は負けない」
 リィルはキリアを見て安心させるように笑みを浮かべた。
「だから……」
「だから?」
「キリアは俺に構わずここから逃げるんだ」
「な、なんでそうなるの! まだそんなこと言うの?」
 リィルと会話をしながらキリアは精霊の力でリィルの傷をふさいでやった。その間、エニィルのほうは攻撃を仕掛けてこなかった。
「キリアちゃん……」
 エニィルの声が聞こえて、キリアははっと顔を上げた。白い霧が薄らいでいく。エニィルは驚くほど近くに立っていた。
「あんまり、リィルを困らせないでやってくれ」
「っ、困らせてなんかいません! 困らせているのは貴方のほうではないですか!」
 それを聞いてエニィルは苦笑した。
「キリアちゃんは、どうしても、ここに留まるつもりだと」
「はい」キリアは大きくうなずいた。
「それじゃあ、仕方ない」
 エニィルはため息をついて、苦笑いを浮かべた。
「強硬手段に出させてもらうよ」
「やれるものならやって下さい!」
 キリアは強気に言い返した。エニィルに相手にあれだけ言ってしまって、もう後には引けない。
 エニィルは右手を掲げた。キリアも身構える。
「父さん! キリア!」
 リィルが叫ぶ。
 エニィルは床を蹴って一気にキリアとの距離を詰めてきた。精霊攻撃が来ると思っていたキリアは完全に虚をつかれた。とっさに身を引こうと思ったが、身体が上手く動かない。
 エニィルの右手が伸びてきてキリアの左肩を掴んだ。青いフラッシュ、そしてスパーク。リィルが自分を呼ぶ声……

 *

 バートはがば、と身を起こした。
「痛……」
 頭がガンガンして、目を閉じて額をてのひらで押さえつけた。頭の痛みが落ち着くのを待って、ゆっくりとあたりを見回した。石の壁に囲まれた薄暗い部屋だった。バートは冷たい床に座り込んでいた。
「ここ、どこだ……?」
 呟いてみて、はっと思い出した。確か、ピアン王が剣で斬りかかってきて……
 バートは胸の傷を確認してみた。触れてみたが痛みはなかった。傷跡もきれいに消えている。
(……? まさか、さっきのは夢……?)
 それにしても、ここは一体どこなのだろう。バートには全く心当たりも見覚えもなかった。
「ピアンの地下牢だよ」
 不意に、少年の声がした。
「まったく馬鹿なヤツ……。王に剣を向けるなんてさ」
 少し離れた壁に背を預けて、ひとりの少年が立っていた。背はそれほど高くなく小柄なほうだ。明るい茶色の髪をしている。
(いつの間に?)
 さっきまでバートはこの部屋には自分ひとりしかいないと思っていた。突然どこからともなく現れたのか、単に少年の気配に気付かなかっただけなのか。
「お前……誰だ」
 茶色の髪の少年は壁から背を離すと、こちらに向かって歩いてきた。バートのそばまで来て足を止め、座り込んだままのバートを見下ろして口を開く。
「俺はね、バートの処刑執行人」
 少年の右手にはいつの間にか細身の長剣が握られていた。少年は右手の長剣を振りかぶり、素早い動きでバート目がけて振り下ろしてきた。
「なっ……!」
 バートは振り下ろされた剣をからくもかわして立ち上がった。
「お前っ、いきなり何すんだ!」
「避けるなよ。せっかく苦しませずに殺してやろうと思ったのに」
 少年は淡々と恐ろしい言葉を口にする。
「そう簡単にやられる俺じゃねーぜ」
 バートは腰の剣を確認し、抜き放った。
「そうかな?」
 少年は首を傾げて笑った。バカにしたような仕草にバートはむかっとした。床を蹴って、一気に間合いを詰める。
「くらえっ……!」
 バートは炎の精霊を召喚し、剣に宿らせた。しかもただの炎の精霊ではない。自分はつい先日、大精霊”ホノオ”の力を手に入れたのだ。その威力は実証済みだった。
「?!」
 バートの振り下ろした剣は、少年の剣によって簡単に受け止められていた。
(炎が……出ない?!)
「残念でした。ここでは精霊剣は使えないよ」
 少年はバートを見上げて挑戦的ににやりと笑った。
「ここは水の『フィールド』だからね」
 今度は少年のほうから攻撃を繰り出してきた。素早い動きによる連続攻撃。一撃一撃には大した力はないのだが、多彩な攻撃に対応するのに精一杯で反撃の糸口がつかめない。それに、やはり寒さの所為か、いつもの動きができない。
(押されている……? こいつ剣の素人のくせに)
 バートは自分の心に浮かんだ言葉に驚いた。目の前の少年を、俺は、知っている?
 頭がずきりと痛んだ。一瞬意識が飛ぶ。次の瞬間、バートの剣は少年の剣に弾き飛ばされて宙を舞っていた。からん、と音を立てて剣が床に落ちる。
 バートの首筋には少年の冷たい剣が押し当てられていた。ぞくりと全身が震えた。
「降参?」
 少年がバートを見上げて笑う。バートは唇を噛みしめて少年を睨み返した。
「……本当はこんな形で勝ったってちっとも嬉しくない」
 不意に少年は笑みを消して呟いた。
「昔っから何度も『勝負』してきたけど、ちゃんと、フェアなフィールドで戦って勝たなきゃ、意味が無い」
「だったら、そうしろよ」
 バートは自分の声がかすれていることに気が付いた。喉が痛む。
「でもねバート……。フェアとかアンフェアとか言ってる場合じゃないんだ。俺はどんな手を使ってでも、バートを処刑しなくちゃならない」
「処刑……。俺を殺すのか」
 バートは声を絞り出した。少年は悲しそうにうなずいた。
「だってバートは罪を犯しちゃったんだから」
 ああ、そうだった……。バートは自分がしでかしたことを思い出した。バートは自分が仕える国の王に、剣を向けてしまったのだった。それはどうやっても動かせない過去だ。罪を犯したバートは、法によって裁かれなければならない。
「わかったよ……」
 バートは呟いた。
「バート」
「良いぜ。好きにしな」
 バートは目を閉じた。こいつも可哀想な役を押し付けられたよな、と思った。……やっぱり俺は、こいつを知っている……?
「最後に、言い残すことは?」
 少年の声。
「そうだな……。……サラに、」
 バートはピアン王の一人娘、金髪の少女の姿を思い浮かべた。
『バート君。娘のサラだ。歳も近いだろう。仲良くしてやってくれ』
 ピアン王の声。
『あたし王女だから……。今まで誰も友達いなくて』
 ピアン王の隣に立つ、幼い王女。
『バート、ずっと友達でいてくれる? ずっと一緒に……』
 これは死の直前に見るという走馬灯というやつだろうか。
(俺、死ぬのか……)
 実感が湧かない。悲しみも苦しみも痛みも無く、心はどこまでも穏やかだった。



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