大 賢 者 の 塔 ( 2 )


 西から吹く風は暖かくもなく冷たくもなく、空気の流れとしてキリアの髪を揺らして通り過ぎていく。心地よい風を全身で受けて服がはためく。ここは、キグリスの大草原で空に一番近い場所、大賢者の塔の屋上。キリアはここに上がったのは初めてだった。視界はほとんど空。見晴らしは最高で、草原の遥か彼方まで見渡せる。
 西の海から吹く風は、この塔を通り過ぎ、大草原の草を揺らし、キグリス首都に流れ込む。だからここは「西風の塔」と呼ばれている。
 皆でここに上がる前に、キリアとリスティルとエニィルの三人は、いったん塔の地下に下りた。バートとリィルとサラ、それにキルディアスは、塔の最上階の部屋で待機していた。
 リスティルがキルディアスに託された鍵を使って地下室の扉を開けた。長い間使われていなかった扉はきしみながら開いた。中はじめっとしており、真っ暗でかび臭い。ランプを掲げたリスティルを先頭にして入る。
 中は図書室のようだった。高さが天井まである本棚が壁を埋め尽くすように並べられている。それぞれの本棚には、分厚い背表紙の重そうな本が並べられている。題名の文字はほとんど古代語のようだった。
 部屋の中央には机があり、大事典くらいの大きさの木箱が二つ並べて置いてあった。
「どうぞ」
 と言って、リスティルはエニィルを振り返った。
「ありがとうございます」エニィルは微笑んで頭を下げた。
「キルディアス様と貴方には、何とお礼を言ったら良いか……」
「エニィルさん……リスティル」キリアはリスティルを見た。
「これって一体どういうことなの?」
「キリアさん……」
 リスティルが声のトーンを落とした。
「申し訳ございません。キルディアス様と私は、長い間、貴女に隠しごとをしていました」
「そうみたいね。こんな見たことも聞いたこともないような部屋に私を連れてきて……でも、ちゃんと話してくれるんでしょう?」
「ええ。でも、ここで長話もなんですし、私がどこまで話して良いものか……詳しい話は、きっとキルディアス様が」
「うん、それが良いね」
 エニィルは進み出て、机の上の木箱の一つを手に取った。
「キリアさん」とリスティルが言った。
「もう一つの木箱は、貴女が持って下さい」
「私が?」
 キリアは言われるままにもう片方の木箱を手に取った。見た目よりも重い。
「これは、何なの? エニィルさんと私の中身は同じなの?」
「気になる?」と、エニィル。
「もちろんです」
「今ここで開けてみる? ちょっと暗いけど」
「はい」キリアは迷いなくうなずいた。
「僕はね、ずっと昔にキルディアス様にお会いして、そのとき、これをここに預けたんだ」
 言いながらエニィルは、木箱を机の上に置いて蓋を持ち上げた。ランプの明かりに照らし出されたのは、てのひらサイズの古びた手鏡だった。
「え、じゃあっ」
 それを見て、キリアは驚いて声を上げた。
「まさか、これが、本物の……」
「ははは」エニィルは照れたような笑みを浮かべた。
「僕達四人が持っていた『鏡』は、全部偽物だったってわけ。本物はずっとここにあったんだ」
「…………」
 キリアは暫く声が出なかった。
「えーと。まさかエニィルさんは、そんな昔から、この、今の事態を予見して……?」
「そういうわけでもないけどね。当時は杞憂だと良いなって思ってたし」
 と言って、エニィルはリスティルを見た。
「申し訳ないと思っています。貴方達と、キリアちゃんを巻き込むことになってしまいましたね」
「そんな、貴方が謝ることではありません」
 リスティルはきっぱりと言った。
「確かに私もキルディアス様も、キリアさんを巻き込みたくなくてずっと黙っていました。ですが、今がその時というのでしょう。遠慮は要りません、エニィルさん」
 キリアの心臓が大きく音を立て始めた。手にした木箱の重さ。もしかして、この木箱の中身は。
「リスティル」キリアは口を開いた。
「貴方もおじいちゃんも、知ってるの? ……大精霊”風雅フウガ”の居場所」
 はい、とリスティルはうなずいた。
「大精霊”風雅フウガ”の扉は……この塔の屋上にあります」
 そして、三人は再び階段を上った。キリアは自分の持つ木箱は開けなかった。「そのとき」になって開ければ良いと思った。最上階の部屋で待つキルディアス達と合流し、七人で屋上へ出た。
 屋上の中央には、一枚の扉がぽつんと立っていた。ピラキア山で見た、岩肌にはめ込まれていた『扉』に似ていた。これが、四大精霊のうちの一体、大精霊”風雅フウガ”の扉だという。”風雅フウガ”についての伝説はほとんど残っておらず、詳細はほとんど知られていなかった。居場所は今日初めて知った。まさか、自分が長い間暮らしていた塔に、扉も鍵もあったなんて。
「おじいちゃんもリスティルも、扉は開けてみたんでしょう?」
 キリアは尋ねてみた。リスティルに支えられて風の中に立つキルディアスは、「そうだ」とうなずいた。
「じゃあ、なんで今まで教えてくれなかったのよ!」
 キリアはそう叫ばずにはいられなかった。
「お前に”風雅フウガ”の情報は必要ないと思ったからだ」
「…………」
 そう言われてしまうと、キリアは何も言い返せなかった。
「こわかったからですよ」
 リスティルが小さく囁いた。
「私達の想像を超えた、『超古代』の技術テクノロジーに手を触れるのが。それに、私達は、『超古代語』をほとんど解読できませんから」
「この扉だって、開けるつもりはなかった。ずっと封印しておくつもりだった」
 と、キルディアスは言った。
 キリアはエニィルをうかがった。彼は扉を見つめて黙っている。
 キリアはふう、と大きく息をついて、その場に膝をついた。木箱を地面に置き、蓋を持ち上げる。バートとリィルとサラが近寄ってきて、木箱を取り囲んだ。
 中に入っていたのは、銀色のリングだった。細かい凝った彫刻が施されている。
「腕輪……?」
 サラが呟いた。大きさは、ちょうどキリアの手首にはまるくらいだった。キリアはキルディアスを見上げた。
「その腕輪を右手にはめて、扉を開けるんだ」
 と、キルディアスは言った。
「私が?」
「お前がやらないのなら、私がやる」
「いえ。やります。私がやる」
 キリアは右手をリングに通した。リングはキリアの右手にぴったりとはまった。そして、扉に歩み寄る。リングをはめた右手で扉の取っ手を掴んで引いた。
 扉は想像以上に軽く音もなく開いた。”ホノオ”の扉のときと同じだった。風がわずかに吹き出てきて顔にかかった。扉の奥には、暗い通路が見える。
「……これは、確かに、中に入っていくの、勇気が要るわね……」
 キリアは一歩後ずさって振り返った。
「もしかして、」
 それに気付いたリィルが呟いた。
「あのとき、実は俺達、とんでもないところに入っていったんじゃあ……」
「どういうことだ、リィル?」バートが聞き返す。
「だってほら、”ホノオ”の扉と同じだろ?」
 とリィルが答える。
「あのとき俺達は、洞窟か何かに入っていく感じで入っていったけど、今回は、あの扉の裏、何もないんだよ。あの中は多分、異次元空間……? もしかしたら、”ホノオ”の扉のときもそうだったんじゃないかな。あのときも俺達、異空間……この世に存在しないはずの空間に足を踏み入れちゃってたのかも」
「今頃気付いたのか、リィル」エニィルが笑った。
「父さん……厳しいね」
 リィルがため息をついて肩を落とす。
「異次元空間……素敵ね!」
 サラが瞳を輝かせた。
「早速入ってみましょう、キリア!」
 キリアはくすっと笑った。
「サラは本当に大物ね。よし、行くか!」
 キリアは中に足を一歩踏み入れた。そこは、塔の屋上ではない場所。多分、異次元空間。感じとしては”ホノオ”の扉の中の通路と同じだった。知らなかったとはいえ、あのときだって無事に出てこられたんだから、と心を落ち着かせる。
 七人は扉の中の通路を進んだ。キリアの真後ろを歩くリスティルがランプで前方を照らしてくれた。通路の奥からは、わずかだが風が吹き出てきているように感じる。「風」――? 風、だろうか?
 キリア達は「部屋」に辿り着いた。想像通り、”ホノオ”の扉のときとほとんど同じだった。天井から降り注ぐまぶしい光。高い石の壁にぎっしりと掘り込まれた超古代語。そして部屋の中央に立つ、奇妙な像――大精霊”風雅フウガ”。その像を見ていると、胸がいっぱいになるような、息苦しいような、威圧感を感じた。これがさっき感じた「風」の正体なのだろうか。この像から感じるのは、尽きることのない風の精霊の力、のようなもの。
 かつてここに足を踏み入れ、超古代の技術テクノロジーに恐怖し、二度と手を触れるつもりがなかったと言っていたキルディアスとリスティル。この場に立つ彼らは今、一体何を思っているのだろう。
「じゃあ、キリアちゃん」
 エニィルがキリアに声をかけた。
「今から、”風雅フウガ”の力をその腕輪に宿すから。右手をこの像に掲げてくれないかな」
「はい」
 キリアは答えて、”風雅フウガ”の像に近付こうと一歩を踏み出した。どくん、どくん……と自らの鼓動が頭の中で鳴り響いている。口の中がからからに乾いている。
 ――怖い。
 と、キリアは思った。どうしても”ホノオ”の扉のときのことを思い出してしまう。”ホノオ”の力を得た途端、絶叫しておかしくなってしまったバートの姿が、頭から離れない……。
 キリアは心を落ち着けようと、大きく深呼吸してみた。
「怖い?」
 エニィルが優しく尋ねてくる。
「……少しだけ」
 キリアは正直に答えた。
「怖いのは無理もないことだ。僕も強要はできないから……やめても良いんだよ」
「いいえ、大丈夫です」
 キリアはきっぱりと答えた。自分以外の誰が、”風雅フウガ”の力を得られるというのだろう。自分はこの塔の主、大賢者キルディアスの孫で、それは動かせない事実なのだ。これは、もう運命なのだ。昔から決まっていたことなのだ。
 キリアは覚悟を決めて、顔を上げて右手を伸ばして”風雅フウガ”の像に掲げた。
「――」
 エニィルが何かを言ったようだった。
「!」
 突然、凄まじい衝撃に身体を貫かれた。声は出なかった。地面が大きく揺れて、目の前が真っ白になった。自分の身体を支えきれなくてその場に崩れ落ちた。
「キリア!」
 サラの高い叫び声が聞こえたような気がした。キリアの意識は、そこで途切れた。



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