大 賢 者 の 塔 ( 3 )


 古代語を書き取っていたペンをふと止めて、キリアは窓の外を見る。チチ、と鳥の鳴き声が聞こえる。一羽の銀色の小鳥が窓の外をすいっと横切っていった。キリアは椅子から立ち上がり、窓のところへ歩く。そして、その窓から自らの身を投げ出した。さっきの銀色の小鳥を追って、自らの銀の翼を広げて。全身で風を受ける。眼下にはキグリスの大草原が広がっている。大賢者の塔があんなに小さく見える。――あれ、今さっき自分は、どこから飛び立ったのだろう。自分を導いてくれるはずのあの銀色の小鳥は、もういない。自分は何故ここに、この空中にいるのだろう。どこへ行きたかったのだろう……。
 ふと気が付くと、キリアは山の中の道を歩いていた。隣を同じ歩調でサラが歩いている。「ねえ、もう一度『手品』見せて」とサラが言った。私できないわよ、と答えようとすると、「良いよ」と声がした。振り返ると、黒いスーツに黒いシルクハットを被ったエニィルが立っていた。彼は左手でシルクハットを持つと、右手で中から青い小鳥を取り出してみせた。すごいすごい、とサラが喜ぶと、エニィルはサラに微笑んだ。
「このくらい君にだってできるはずだよ、ピアンの王女様」
「……私は?」
 キリアはエニィルを見上げた。私には言ってくれないの?
 そこでキリアははっと我に返った。白く高い天井を見上げていた。背中に感じる柔らかな弾力が心地良い。キリアは大賢者の塔の自室のベッドの中にいた。
 扉を開ける音が聞こえ、そちらに目をやるとリスティルが入ってくるところだった。
「キリアさん……良かった」
 目が合ってリスティルが微笑んだ。
「リスティル……」
 キリアは呟いた。リスティルはこちらに歩み寄ってきた。
「あれからどうなったの?」
 キリアはリスティルに尋ねた。そのとき、リスティルの右手が手首まで白い包帯に包まれていることに気がついた。
「リスティル、その右手は?」
 言いながらキリアは自分の右手首にはめた腕輪リングのことを思った。自分の体温と同じ温度の金属の感触を感じる。
「貴女は丸一日眠っていたんですよ」と、リスティルは言った。
「みんな心配していました」
「え、じゃあ、次の日になっちゃったの? みんなは?」
「皆さんにはこの塔に泊まっていただきました」
「で、リスティル。その右手は」
「大した怪我ではありません。自分で治癒しました」
「なんでそんな怪我したの」
「ちょっとした不注意で」
 リスティルはそれだけ言って口をつぐんだ。リスティルは案外こういうところがある。それ以上聞き出すのは無理だと思った。
 キリアは大きく息をついた。
「……ごめんなさい」
「この怪我は貴女の所為ではありません」
「あ。えーと、そうじゃなくて」
「何です?」
 リスティルは穏やかな瞳をキリアに向けた。
「だって、随分遅くなっちゃったじゃない、ここに帰ってくるの。連絡もしないで」
「そのことですか」リスティルは笑った。
「おじいちゃん、怒ってた? リスティルは怒ってる?」
「色々トラブルに巻き込まれていたのでしょう。ご苦労様でした」
「違うの」
 キリアは一度ぎゅっと目を閉じた。
「……自分の意思だったの、ずっと帰らなかったの……ごめんなさい」
「何か主張したそうですね、キリアさん」
 リスティルは相変わらず穏やかに微笑んでいる。
「外の世界の旅が楽しくて……塔の中よりもずっと。私、それを知っちゃったの。だから帰りたくなくなっちゃったの。ごめんね、リスティルは色々なこと教えてくれたし、大好きだし、おじいちゃんも大切な人で尊敬してる」
 リスティルは黙って聞いていた。
「だから、これからも、みんなで――サラやバートやリィル達と一緒に旅を続けたいの。良い?」
 リスティルはにっこりと微笑んで答えた。
「勿論です。貴女がそう望むのなら」
「リスティル!」
「外の世界から色々学ぶことも多いでしょう」
「ありがとう!」
 叫んでから、キリアは少し心配になって言ってみた。
「リスティルも、どう?」
「はい?」
「私達の旅に一緒に……。外は良いわよ。みんな良い人だし」
「お誘いありがとうございます。でも、そんな気を使わないで下さい」
「だって、リスティルだって私と同じで、長い間塔に閉じ込められて……」
「これでも、私、若い頃はけっこう各地を旅して歩いてたのですよ」
 と言って、リスティルは微笑んだ。
「そっかあ……」
 キリアはリスティルの若い頃を想像してみた。こう見えてもリスティルってあのサイナスさんの弟なのよね……と思うと、少しだけ納得してしまう。
「あ」
 キリアは思い出して声を上げた。
「旅の途中で、久しぶりにリネッタとサイナスさんに会ったの。あと、ウィンズムにも……彼、従弟いとこなんでしょ?」
 キリアとリスティルがその話題で盛り上がっていると、会話の途中で、部屋の扉が開いてサラとバートとリィルが入ってきた。
「キリアっ!」
 サラが叫んで急いで駆け寄ってきた。
「みんな!」
「良かったあ……」
 サラが涙ぐみながら、ベッドのかたわらにしゃがみこんだ。
「まったく、心配かけやがって」とバートが言う。
「あ、一応心配してくれたんだ」
 いつもの調子で軽く言うと、
「バカ、当たり前だろ」
 バートは真顔で返してきた。
「はは……ごめんごめん。あれくらいで気絶しちゃうなんて、私もまだまだ修業が足りないわね」
「キリア、本当に大丈夫? 普通に喋ってるように見えるけど……」
 リィルが尋ねてくる。
「うーん、まだちょっと身体が重い感じだけど、気分はすっきりしているわよ」
「本当に心配したのよ、みんな」とサラ。
「ありがとう。……ところで、エニィルさんとおじいちゃんは?」
 キリアが尋ねると、リィルが大きくため息をついて答えた。
「……ちょっとやばいよ、あの二人」
「え? やばいって?」
 キリアはどきっとした。
「朝から二人っきりで部屋にこもっちゃって。父さん責められてるんじゃないかな。キリアに怪我させちゃったから」
「えええっ」
 キリアは思わず大声を上げた。
「何それ。私の所為で……エニィルさん全然悪くないのに。おじいちゃん止めなきゃ」
 身体を起こしかけたキリアを、サラが「まだ無理しちゃだめよっ」と押し留めた。
「それに、キルディアス様の気持ちもわかるわ。キリアは大切なお孫さんだもの」
「大切な?」
「だって、めちゃくちゃ箱入りじゃん、キリアって」
 リィルが笑って言った。
「うー」
 キリアはうなった。確かに言われてみればその通りかもしれない。ずばりと言われて何だか気恥ずかしい。
「では。私はそろそろ」
 リスティルが立ち去ろうとしたので、キリアは呼び止めて言った。
「エニィルさんが窮地に立たされてるようだったら助けてあげて。私がそう言ってたって伝えて」
 リスティルは了解して部屋を出ていった。
「あの人がリスティルさん」
 後姿を目で追ってサラが呟いた。
「確かリネッタの兄貴だったよな」
「あれ。よく覚えていたね、バート。なんか優しそうな人だね」
 と、リィル。
「っていうか、キリアに甘そう」
「どうせ甘やかされて育ったわよ。おじいちゃんは厳しかったけど」
「でも、キリアのおじい様も、リスティルさんも、キリアのことをすっごく大切にしてるって感じがするわ」
 とサラが言った。
「……うん。そうね」
 キリアは微笑んだ。
「そうだ、私、みんなに聞きたいことがあるんだけど」
「何、キリア?」
「リスティルの右手……リスティルは何も話してくれなかったんだけど、どうしちゃったの?」
 それを聞いて、三人は一瞬お互いの顔をうかがったようだった。
「……ねえ、まさか。リスティルは否定してたけど……もしかして、私、が……?」
 キリアが言うと、違う違う、と、三人は慌てたように首を振った。
「お前の腕輪リングを外そうとしたんだ」
 とバートが言った。
腕輪リングを?」
「キリアが気絶しちゃったすぐ後で、」
 とリィルが言う。
「リスティルさんがキリアの右腕の腕輪リングを外そうとして触ったんだ。そしたら、すごい衝撃で、右手のひらがざっくりと」
「…………。そう、そんなことが……」
 キリアは言いながらゆっくりと上半身を起こした。自分の身体なのにやけに重くて、苦労しながら上半身を起こした。膝の上に右手を置いて、改めて腕輪リングを見た。腕輪リングは鈍い銀色の光を放っている。
「キリアもうかつに触らない方が良いんじゃない……って。もう触ってるわよね、右手首。キリアが触る分には大丈夫なのかしら。他の人が触るとだめなのかしら」
「試してみるか」
 いきなりバートが手を伸ばしてきたので、キリアは慌てて自分の右手を引っ込めた。
「ちょっと何すんのいきなり。危ないかもしれないでしょ」
「でも、試してみねーとわかんねーだろ」
「良いわよ別に試さなくたって。私がこうやって持ってれば良いんだから」
「バートの剣も、そうなのかな」
 と、リィルが言う。
「大精霊の力を宿した『鍵』ってのは、『持ち主』以外はさわれなくなっちゃってるのかも」
「そうなのかしら。だとしたら、それって不便ね……」
 サラが残念そうに呟いた。



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