第2話 (1)


 日曜日の次の日の月曜日。一週間の始まりの日は朝から雨だった。外では冷たい雨が音を立てて落ちている。
 隣の部屋からどしんばたんという振動音が聞こえてきてエンリッジは目を覚ました。隣の部屋は、もちろんアリスの部屋である。
「何やってんだアイツ。こんな朝っぱらから」
 エンリッジは大きなあくびをひとつしてから、掛け布団ごと上半身を起こした。

 *

 適当に食べ物を腹の中に入れ、エンリッジは昨日首都で買った新しいコートに袖を通していた。平日の朝食は適当で構わなかった。平日は昼食・夕食と念研の食堂でまともな食事が食べられるので、朝食が多少手抜きでも何とかなるのだった。
 いつもより少し早い時間に部屋を出ることにしたエンリッジは、隣の部屋のドアを叩いてみた。少しして中から「はーい」という声が聞こえてきて、扉が開けられた。
「よっ、アリス」
「あ、エンリッジさん。おはようございます」
 アリスはしゃきっと目覚めていて、きちんと着替えていて、元気な笑顔をエンリッジに向けてきた。
「お前、さっきから何やってんだ? 隣の部屋まで音が聞こえてくるんだけど」
「あ、うるさかったですか?」
「いや。でもちょっと気になってさ」
「修業です」
 と、アリスは答えた。
「修業? 何の……」
「色々です。いつもは外で早朝ジョギングして他にも色々身体動かすんですけど、雨の日はさすがに外でやる気しなくて」
「そうか。……良くわからないけど、頑張ってるんだな、お前」
 ――雨で良かった、とエンリッジはちょっと思っていた。もし今日が晴れていたら、きっとアリスは『修業』と称して外に出て、ついでに念研の外に出て、平原まで足を伸ばして、またひとりで『樹』を倒しに行ってしまうかもしれない。アリスの強さはわかってはいるのだが……。
「じゃあアリスは、今日は部屋にいるんだな」
 と、エンリッジは聞いてみた。
「まあ、雨降ってるうちは。雨が止んだら外に行くと思いますけど」
「今日は一日雨だってさ。あ、そうだ、昼になったら食堂来いよ。おごってやるから」
「本当ですか?」
 アリスは目を輝かせた。

 *

 アリスが毎日何をしているのかエンリッジが気になり始めたのは、数週間前のある一件がきっかけだった。夕方、アリスが念研の門の前で倒れていたのだった。左肩と背中に酷い傷を負っていた。エンリッジが「癒しの力」を使って怪我を治してやって、丸一日眠ると、アリスはけろりと元気になっていた。
「アリスは……このままで良いのだろうか」
 念動力研究所、所長室にて。二人分の緑茶をれながらジュリア=レティスバーグはふうと息をついていた。年齢は二十五歳、エンリッジより二つ年上の女性である。彼女は念動力研究所の所長を務めている。まだ若いが、『念動力』に関する知識や理論や実践において、彼女にかなう者はいなかった。
「このままって?」
 お茶菓子の戸棚の引き戸を開けながらエンリッジは聞き返した。時刻は十時半。午前中の仕事がひと段落したら、エンリッジは所長室に行って所長――レティとお茶を飲んでお茶菓子を食べて一息入れることにしていた。
「私は毎日アリスを自由にさせているが、……それで良いのだろうか」
「ああ……。自由にさせとくと心配、って意味か?」
 こくりとレティはうなずいた。エンリッジは二人分の茶菓子を取り出すと、皿に乗せてテーブルまで運んだ。ソファにレティと向かい合って腰を下ろす。
「修業、って言ってたから修業だと思っていたんだ。しかし、毎日のように命がけの『修業』をされては困る」
「そりゃそうだ」
 エンリッジは湯飲みを口に運びながら、うんうんとうなずいた。
「昨日はたまたま出て行くところを捕まえられたけど、毎日そうは行かねーしなあ」
「それで考えたんだが、念研で、何か仕事をやってもらうというのはどうだろうか」
「アリスに? どうも何も、良いんじゃねーか?」
「アリスの自由な時間を奪うことになってしまうが……」
 レティの言葉を聞いて、くくっ、とエンリッジは思わず笑い声を漏らしていた。
「……?」
「いやあ……レティって……アリスのこと、」
「あーーっ」
 ばたん、とドアが開けられて、若い女性の声が割り込んできた。白衣を羽織って、肩より長いふわふわの髪の毛を二つにくくっている。背は低くて、丸眼鏡をかけている。
「こら、まーたエンリ君は仕事サボって所長の邪魔をしてー」
 彼女はすたすたと歩いてエンリッジに近付くと、ぽかりと頭を小突いてきた。
「痛っ」
「邪魔しているわけではない。私も休憩しようと思っていたところだったから」
 生真面目にレティが返す。
「そう、なら良いんだけど。じゃあ私も混ざって良いかしら?」
「勿論だ。エンリッジ、お茶菓子と湯のみをもうひとり分頼む」
「……仕事サボってって……キツいなあマリさん……」
 ぶつぶつと呟きながらエンリッジは立ち上がった。割り込んできた女性はレティの隣に腰を下ろす。
「で? 何の話してたの?」
 彼女は好奇心に満ちた目をレティに向けた。彼女の名前はマリサ。レティと同い年で、レティの同期で親友だと言い張っている。念研「所長」を呼び捨てにしてタメ口をきいて所長室にずかずか上がりこんで一緒にお茶ができるのは、エンリッジとマリサくらいのものだった。

 *

「アリス君のことかあ……」
 塩煎餅をばりばりとかじりながら、マリサは口を開いた。
「確かにアリス君血塗れ事件はびっくりしたものね。やっぱり監視……じゃなくて、平日は念研で仕事してもらうのが良いんじゃないかな。ちゃんとお給料も払って」
「マリサもそう思うか」
「うん。だって、アリス君が『樹』を倒しに行っちゃうのは、もしかしたら、修業がどーのじゃなくて、『仕事』が無いからじゃない?」
「……そうか。そうかもな」
 レティは言って、湯飲みの緑茶を一口すすった。
「きっとアリス君は、『樹』を倒すことが自分の仕事だって思ってるのよ。そりゃあ、危険な『樹』を倒してもらえるのは有り難いけどね。でも、アリス君がひとりで頑張らなくたって良いと思うし。もちろん修業ってのもあると思うけど……。ってかなんで、アリス君って修業してるんだっけ?」
「強くなるため、と言っていたが。まあ、習慣みたいなものかもしれないな。ここに来る前は、……小父おじ様と二人で修行の旅に出ていたらしいし」
 そう言って、レティは視線を落として口を閉ざした。マリサも小さくため息をつく。窓の外の雨音が大きくなる。なんとなく、沈黙が流れた。
 エンリッジはアリスが念研に来た日のことを思い出していた。二か月ほど前のことだった。ある朝、レティが十五歳くらいの少年を連れて、エンリッジの部屋をたずねてきた。
「エンリッジ。今日からお前の隣の部屋で暮らすことになったアリスだ。私の親戚のような……まあ、弟のようなものだ。仲良くしてやってくれ」
「よろしくお願いします」
 アリスはぺこりと頭を下げた。薄汚れた服装に、オレンジ色のバンダナ。礼儀正しい、きちんとした少年だなと思った。こうしてアリスはエンリッジの隣の部屋で暮らすことになった。
 エンリッジはアリスのことが気になって、レティに色々聞いてみた。そして、レティの知っているアリスのことを色々知った。
 首都に住んでいたこと。
 両親が離婚したこと。
 父と一緒に各地を巡り、「修業」していたこと。
 先日、父を亡くしたこと。
 オレンジ色のバンダナは、父の形見だということ。
 ひとりになってしまい、それで「知り合い」のレティを訪ねてきたこと。
 アリスの父とレティの父は知り合いで、家も近かった。アリスは首都に住んでいた頃、レティを姉のように慕っていたのだそうだ。

 *

「で……アリス君のことなんだけど」
 と、マリサが口を開いた。
「ふと思ったんだけど……アリス君、仕事じゃなくって学校に行かせるべきなのかなあ……」
「学校?」
 エンリッジはマリサを見た。
「うん。首都にあるアカデミー。私とレティが通ってたところ。初等教育コースだけでも修了しておくと将来、何かと役に立つと思うんだけど」
「確かにそうだなあ」
 エンリッジもうなずいた。
「よし。じゃあ、アリスの学費は俺が面倒見る」
「おっ、言ったわね。でもまあ、奨学金制度もあるし、初等だけなら大した学費じゃあ……」
「……盛り上がっているところ、すまないが……」
 レティが口を挟んだ。
「アリスは中等まで修めている」
「……ええっ?!」
 一呼吸遅れて、エンリッジは驚きの声を上げた。
「へええ。それは意外」
 マリサも感心する。
「首都に住んでいたときに?」
「ああ。アリスの母親さんが教育熱心で。……アリスは嫌々だったみたいだが」
「……なあ、レティ。アリスの母親さんって今……」
 エンリッジは尋ねてみた。
「ちょっと前に再婚して、引っ越していった。今は、どこに住んでいるかはわからない……」
 と、レティは答える。
「まあとにかく、アリス君中等まで修めてるんだったら……」
 マリサは笑顔を浮かべて、エンリッジを見た。
「?」
「私の仕事、アリス君に譲ってあげようか?」


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