c h a o s II ( 2 )


 リンツの町外れの小さな医院。
 そこで医師として働くエンリッジは、四六時中リィルに付き添っているわけにはいかなかった。医院には火傷をした男の子だとか小動物に噛まれた男の子だとか熱を出した女の子だとか、様々な親子連れがやってくる。たまに大人もやってくる。もともと入院患者をひとり引き受けることには無理もあったのだ。それでもエンリッジはむしろすすんでリィルの身柄を引き受けた。
(人手が足りないのは、どこも同じだからな。どうせなら知り合いの俺が診てやってるほうが、バートやキリアだって安心できるだろ)
 バートとキリアが”ケイオス”に旅立った後、エンリッジは医院を開け、午前中の患者たちを診た。昼になり、エンリッジはコーヒーを片手にリィルの眠る病室の扉を開けた。
「!」
 エンリッジはコーヒーを取り落としそうになった。
 ベッドの中で眠っていたはずのリィルが、ベッドの中にいなかった。病室の床の上にうつぶせになって倒れている。
 エンリッジはカップをテーブルの上に音を立てて置くと、リィルに駆け寄って抱き起こした。リィルの身体は随分冷たくなっていた。
「おいっ」
 エンリッジはリィルを揺さぶった。
「リィル、しっかりしろ! 意識が戻ったのか?」
「……う、」
 小さく呻いて、リィルの目がゆっくりと目をひらかれ、エンリッジの姿をとらえた。
「リィル……」
 エンリッジはその目を覗き込んで、ほっと息をついた。
「良かった……目が覚めたか」
「ここは……」
 リィルは呆然とつぶやいて、ゆっくりと周囲を見回した。
「エンリッジさん、の、医院……?」
「ああ。お前、ずっと眠ってたんだ。……大丈夫か? 気分は? 立てるか?」
 リィルはうなずいて、エンリッジの手を借りてゆっくりと立ち上がった。意外にしっかりとした足つきだった。
「……みんな、は……」
 独り言のようにリィルがつぶやいた。
「……ああ、」
 エンリッジはどう答えたものかと、少しだけ迷った。
「みんなも、大丈夫だ。サラ王女は王のところにいる。バートとキリアは……」
「行ったんですね、”ケイオス”に」
 はっきりとした口調で、リィルはそう言った。
「リィル……」
 エンリッジは驚いてリィルを見た。
「……俺も、行かなくちゃ……」
 リィルが小さくつぶやく。
「え?」
 次の瞬間、もうリィルは動いていた。さっきまでベッドで眠り続けていたとは思えないくらいの俊敏な動きで、扉を開けて部屋の外へと飛び出していく。
「……っ、おい待てっ」
 リィルを捕まえようと伸ばしたエンリッジの右手は空しくくうを切った。扉は開け放たれたまま、病室にはエンリッジ一人だけが取り残された。
「…………」
 エンリッジははあ、と小さく息をついた。……ずっと眠ってた割には――いや、だからなのか、けっこう元気そうだったよな、と思いながら。

 *

 リィルは町の南側の乗用陸鳥ヴェクタ乗り場に辿り着いていた。全力疾走するのは、いや、身体を動かすこと自体、随分と久しぶりだった。自分の身体の感覚がまだ完全に戻っていなくて、リィルは乗用陸鳥ヴェクタ乗り場でぜえぜえと息を切らせていた。
「……リィル……ちゃん……?」
 自分の名を呼ぶ声がした。振り返ると、そこには声の主、金髪の少女が立っていた。
「サラ」
 リィルは少女の名を呼んだ。サラは微笑んだ。
「やっと……目が、覚めたのね……」
「おかげさまで」
 リィルも微笑んだ。
「随分長いこと眠ってたみたいで……ごめん」
「……全く、寝すぎなんだから……」
 泣き笑いのような表情でサラが言い、リィルは心が痛んだ。
「サラ……、王のところにいるって、俺は聞いたんだけど、」
「抜け出してきちゃった」
 サラはいたずらっぽく微笑んだ。
「なんで……って。……俺と同じかな、考えてること」
「ええ」
 サラはうなずいた。
 ずきん、と、今度ははっきりと自分の胸が痛んだ。
「っ」
 リィルは息を止めて胸を押さえ、顔をしかめた。――さっきも、そうだった。エンリッジの医院で意識が戻ったときに受けた、衝撃のような……
「……リィルちゃん……?」
 サラが心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫」
 リィルは笑顔をつくって、サラに向けた。
「……でも、急がないとヤバいかもしれない」
「え……?」
「バート……、キリア……」
 リィルは南に目を向けて、つぶやいた。
「急がないと……」

 *

 バートが握りしめていた短剣は、クラリスの一撃を受けて粉々に砕け散った。バートは呆然とそれを眺めるしかなかった。
「く……そ……」
 バートはつぶやいて、それでも父親を睨みつけた。剣を失ってしまった今、バートにはもう殴りかかることくらいしかできなかった。そして、素手で父親に勝てるとは、さすがのバートも思っていなかった。
 ……完敗、だった。悔しいが、潔く認めざるを得なかった。
(ちくしょうっ……!)
「バート」
 クラリスはもう剣を収めていて、穏やかな眼差しをバートに向けていた。
「バートは、もう、十分に強くなった」
「……そんなこと言われたって」
 この状況でそんなことを言われたって、バートはちっとも嬉しくなかった。しかし自らの「負け」を認めてしまった今、バートには威勢良く言い返す気力すら残っていなかった。
(みんな……悪ぃ。情けねーな……俺)
 クラリスは自分のマントの端を引き裂くと、バートの左肩の傷を縛って止血してやった。
「父親……」
 バートは父親を見上げた。
「話を、しよう」
 クラリスは息子を見下ろして、そう言った。
 次の瞬間――バートの目の前には青い海が広がっていた。揺れる水面、波の音、潮の香り、潮風。
「えっ……?!」
 バートはあたりを見回した。海を見下ろせる崖の上に立っていた。眼下には真っ青な海。遥か彼方に緩やかなカーブを描く水平線。背後には赤い大地。真上には太陽。
 ――何でもありだな、とバートは思った。もうどうにでもなれ、と思った。
「この海の向こうに」
 クラリスの声が聞こえた。バートははっとしてそちらを見た。クラリスはバートの隣に立って、水平線の彼方を眺めていた。
「大きな大陸があると、聞いた」
「父親……」
 バートも視線を空と海との境、青の境界線に向けた。
「その大陸では、人々が豊かに幸せに暮らしていると、聞いた」
「その大陸って……」
 バートはつぶやいた。
「かつて、『我々』も、そこで豊かに幸せに、暮らしていた」
「かつて?」
「遠い昔、何千年も前のこと。しかし、我々は追放された。そしてこの地に、追いやられた」
「どうして……」
 バートは尋ねる。
「『異端』、だったから」
 クラリスは答えた。
「異端な者たちは、多くの、いや、一部の者たちの豊かで幸せな生活のために、大陸から排除された」
「…………」
 バートは言葉を失った。
「だから、我々にはその大陸を取り戻す権利が、ある」
「それが……、あんたたちがパファック大陸に攻め込んできた理由か?」
「そう」
 クラリスはうなずいた。
「その大陸は、我らの夢だった。希望だった」



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