水 の 迷 宮 ( 2 )


「バートとリィルってつくづく正反対で面白いわよね」
 バートの枕元の椅子に腰掛け、リンゴの皮を剥きながらリィルの姉エルザが楽しそうに笑った。まったく、リィルもリィルなら姉も姉だよな、と言おうとしてバートはごほごほと咳き込んだ。こっちは高熱を出してベッドで伏せっているのだ。
 ピアン首都に雪が降った。首都は一夜にして一面真っ白な世界と化した。朝起きてバートは家中の窓を開け回って外を眺めた。それだけじゃ足りなくて外に飛び出してリィルの家まで駆けた。寝ぼけ眼のリィルを無理やり連れ出して雪の中を駆け回って遊んだ。
 その日の夜、バートは熱を出した。次の日の昼すぎ、リィルがみかんを一山持って見舞いに来た。リィルはベッドに横たわるバートを見下ろして驚いたように呟いた。
「馬鹿は風邪ひかないって嘘だったんだ」
 第一声がそれかよ、と言おうとしてバートはごほごほと咳き込んだ。体中が熱くてだるい。頭が重い。喉が痛む。呼吸が苦しい。
 リィルはテーブルにみかんのかごを置くと、一個を手にとって皮を剥き始めた。みかんの甘酸っぱい香りがバートにも届く。みかんは好きだが今は食べる気分ではない。リィルは指でつまんで口に運びながら「バートも食べる?」と聞いてきた。
「食欲なぃ……」
 バートは弱々しい声で答える。
「そう? 俺ばっかり食べちゃって悪いね」
 と言いつつ悪く思っている様子もなくリィルはみかんを美味しそうに食べる。一個食べ終わるともう一個に手を伸ばす。二個食べ終わって「じゃ、お大事に」と言って帰っていった。何しに来たんだよ、と思った。次の日にはリンゴを持ってエルザ姉がやって来た。
 バートは寒さに弱かった。毎年冬になると何度か風邪をひいて寝込んだものだった。とは言っても体力はあるので何日も長引くということはなく、二日もすれば何事もなかったかのようにけろりと良くなってしまうのだが。
 反対にリィルは冬は元気なのだが暑さに弱かった。夏になると夏ばてたと言いながらあまり食べなくなり、体調を崩して寝込むこともあった。バートは母ユーリアに「持って行きなさい」と言われてメロンを持ってリィルの家に見舞いに行った。そのメロンがリィルの口に入ることはほとんどなかった。

 *

「ここ、どこだ……?」
 バートはつぶやいた。言葉と一緒に白い息が吐き出される。少し寒すぎるくらい涼しい。
 バートの隣に立つサラは手を伸ばして壁に触れた。氷のように冷たい。実際、氷でできているような壁だった。完全な透明ではなく、白くにごっている。壁の向こう側は見えない。
 バートとサラはリーガル湖でボートに乗っていたはずだった。サラがボートを見つけて「乗りたい」と言ったのだ。バートは漕ぎ手としてリィルとキリアに無理やりボートに押し込まれた。しかしボートを楽しそうに漕いでいたのはほとんどサラのほうだった。サラはボートに乗りたかった、というよりはむしろ、乗って漕ぎたかった、らしい。
 ボートの乗り心地は悪くなかった。広々とした湖の景色も良い。一面にたたえられた水はきれいな青色。サラと二人、こうやって揺れるボートでぼんやりするのも悪くないなと思った。
 突然、ボートが大きく揺れた。波の力とは思えない何かにボートが持ち上げられ――次の瞬間、ボートは落ちる。声を上げる暇もなかった。バートとサラはボートごと何かに飲み込まれ――
 そして気がついたら、バートとサラはここに立っていた。見上げると両側の氷の壁と同じような天井が見えた。左右の壁に挟まれた通路の幅は、人三人が肩を並べて歩けるくらい。その通路は、バート達の前と後ろに、二人を誘うように進むべき道を延ばしていた。
「ボート、無くなっちゃったわね……」
 サラがのんびりとつぶやいた。
「問題はそこなのかよ!」
 バートは思わず叫ぶ。
「夢じゃないわよね? バート、さっきまであたしと一緒にボート乗ってたわよね?」
「ああ、確かに」バートはうなずいた。
「でも夢じゃないとしたら、一体何なんだよこの状況!」
「ちょっと寒いけど服は濡れていないわ」
 サラが自分の服に触れながら言った。
「湖に落っこちたってわけじゃないのね」
「どーなってんだ、本当に」
 バートも自分の服と、いつも腰に挿している剣を確認した。
「とりあえず行きましょうか、バート」
 サラは通路の前方の彼方を指さして言った。
「ここで止まっていたってわからないものはわからないわ」
「そうだな」
 バートも今の状況を考えることを吹っ切ってうなずいた。
 二人は並んで通路を歩いた。二人ともしばらく無言だった。バートもサラも言葉を探さない。どこまで歩いても光景は変わらない。永遠、という単語が頭をよぎる。
「バート、『風の扉』のこと覚えてる?」
 突然サラが口を開いた。二人とも歩みは止めない。
「ああ、もちろん」
 バートは得意げにうなずいた。
「こないだみんなで入ってったとこだろ? キリアのじーちゃんの塔の屋上にあった……」
「そうそう。あのときも、こんな感じだったわよね。現実世界とは違った空間内の通路を進んで行って」
「そんで奇妙な像が立ってて。大精霊”風雅フウガ”とかいう……まさか」
 そこまで言ってバートはサラが言おうとしていることに思い当たった。
「じゃあ、まさか、ここって……この通路進んでったら水の大精霊に会えたりするのか?」
「その可能性はあると思うわ」
 サラが瞳を輝かせた。
「でも、問題なのは、ここにはリィルちゃんもエニィルさんもいないってことなのよね。せっかく”流水ルスイ”に会えたって何したら良いかわかんないし……あ、でもちょっと待って。それ以前に『扉』はどうなるの?」
「へ? 扉?」
「だって、バートのときもキリアのときも、鍵があったから扉が開いたわけでしょ。あたしもバートも水の鍵なんて持っていないし、水属性でもない。ってことは……」
「ってことは?」
「ここって、一体、どこなのかしら……」
「……結局振り出しに戻ったな」
 バートはわざとらしくため息をついてみせた。

 *

 キリアは朝の街を走って昨夜泊まった宿屋に戻った。案の定エニィルはまだ戻ってきていなかった。それを知って、キリアは少しだけ迷った後、自分の素直な気持ちを優先させることにした。さっき駆けてきたばかりの道を引き返し、湖の桟橋に辿り着く。
 そしてボートで漕ぎ出していったはずのリィルの姿も、湖のどこにも見えないのを目の当たりにする。
「バカ……」
 キリアは呟いた。もしここにボートが一艘でも残っていたのならば、迷うことなくキリアもボートに乗り込んで湖に漕ぎ出していただろう。しかし、あいにくボートは二艘しかなかったのだ。そしてボートは二艘とも行方不明になってしまった。
 なんで自分は素直にリィルの言葉に従ってしまったのだろう、とキリアは思う。父を探しに行くのは本来ならばリィルの役目だったはずだ。先手、取られてしまった。これで自分に残された道はひとつ。湖で消えた三人のことをエニィルに知らせる。それしかない。
 あのときもそうだった、とキリアは思い出す。バートとリィルが二人きりでピアン首都、つまり敵の本拠地に乗り込んでいってしまったとき。また、置いていかれた。理由を聞いたら何と答えるかもあのときと同じだろうと想像できる。
(そんなのちっとも嬉しくないわよ……)
 むしろ、悔しい。今まであまり考えたことはなかったが、自分は彼らより二つも年上なのだ。もう少し頼ってくれたって良いのにと思う。
(でも、今はそんなことより)
 キリアは気持ちを切り替える。まずはエニィルを探さなくてはならない。彼の行方の心当たりについて、リィルは「キリアにないのなら俺にもない」と言った。それはつまり、エニィルを探すとしたら同じ手がかりしか持っていないということだ。それが、
(ジュリア=レティスバーグさん。研究者――)
 エニィルの知り合いだという女性。幸い名前は聞いていた。この町の人々に聞き回れば、そう苦労せずに見つけることはできるだろう。
(必ず追いかけるから……! だから、無事でいてよ、みんな……!)
 キリアは人影のない湖にそう誓うと、町のほうに向かって駆け出した。



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