コルシカ王国最南の町、コリンズ。
リィルとキリアは並んで木製のベンチに腰掛けていた。二人の目の前には真っ青なリーガル湖が広がっている。ひんやりとした朝の空気。わずかに潮の香りがする。寄せては返す波の音。波打ち際でちゃぷちゃぷと音を立てている。揺らぐ水面の上にごつごつした頭を覗かせる岩岩。遠くの湖面から湯気のように霧が立ち上り、ゆったりと流れている。
風が出てきた。波音がざざーん、ざざーんと大きくなる。遠くの波間で二人乗りの手漕ぎボートがシーソーのように揺れながら漂っている。乗っているのは、バートとサラだ。朝、四人で湖畔を散歩していると、二艘のボートが桟橋に繋いであるのを見つけた。サラが「乗りたい」と言ったので、リィルとキリアで「行け」とバートの背中を押してやった。キリアは気を利かせるつもりなのか、自分はボートに乗らないと言って桟橋から少し歩いたところにベンチを見つけて腰を下ろした。
隣に座るキリアを見ると、バートとサラの乗るボートを自分のことのようにすごく嬉しそうに眺めている。リィルは少しだけ複雑な気持ちになる。小さくため息をつくと、キリアがはっとしたようにこちらを見た。リィルはしまった、と思った。今のため息はどう考えたって場違いだった。
「リィル……」
キリアが言葉を選ぶように口ごもった。
「もしかして……悪いことしちゃった? だとしたらごめん……」
「はっ? 何のこと?」慌ててリィルは言った。
「な、何勘違いしてんのか知らないけどさ、今のため息は……ちょっと考えごとしてて」
「考えごと?」
「うん。……父さんのこと」
確かにリィルは苦し紛れではなく、もうひとつため息をつきたくなるような気がかりを抱えていた。むしろこっちの方が深刻だった。リィルの父、エニィルのことだ。エニィルは昨夜一晩中戻らなかった。朝になっても帰ってこないので、暇を持て余して四人で湖畔の散歩に出かけたのだ。
コリンズではエニィルの知り合いの女性に会うことになっていた。名前はジュリア=レティスバーグ。コルシカ首都から派遣された研究者だとエニィルは言った。彼女がリーガル湖にあるはずの「扉」について一番詳しい人物だと言う。
五人は宿をとり、食堂で遅い夕食をとった。「今日はもう遅いから、レティに会いに行くのは明日にしよう」とエニィルは言った。
「そんで、また父さんは『入ったことある』とか言うんでしょ?」
魚貝ピラフを口に運びながらリィルは言った。
「『鍵』は塔に預ける前は持っていたわけだし」
「残念ながら、ないよ」
「嘘」
「だって『水の扉』はまだ発見されていないんだから」
「そうなんですか?」
キリアは食事の手を止めて驚いて声を上げた。
「でもエニィルさん、全ての『扉』の場所は知っているって……」
四体の大精霊、”
エニィルは旅立つ前、「”
話すと長くなりそうだから詳しい話は明日、と言って、五人は分かれてそれぞれの寝室に向かった。そしてエニィルは「バート君とリィルは先に寝てて」と言って、どこかへ出かけて行ってしまった。リィルは夜中に何度か目覚めたが、一晩中エニィルが戻ってきたような様子はなかった。
エニィルがどこへ行ったのか、何故朝になっても帰ってこないのか。リィルにはさっぱりわからない。知り合いだというレティさんのところかな、とも思ったが、断言はできない。それに、もしそうだとしたら……リィルに黙って一晩中、というのはさすがに少しまずいのではないだろうか。
(まあ、父さんのことは全面的に信用してるけどさ)
リィルは昔の会話を思い出していた。夜中、両親が寝た後のダイニングテーブルで、エルザとフィルとリィルの三姉弟は夜食にピザトーストを焼いて食べていた。そのとき「面接か何かで『一番尊敬する人は?』と聞かれたら何と答えるか」という話になった。エルザは「お父さん」と即答した。「なんで?」と聞いてみると、
「あの人は一見ああだけど奥深いわよー」
と、エルザは言う。
「お母さんも良く見抜いて捕まえたわよね。それもひっくるめて二番目に尊敬する人はお母さんかな。私も将来、ああいう人を捕まえたいわね」
「へえ……」リィルは感心した。
「今の言葉、父さん聞いたら涙流して喜ぶよ」
「ダメよ。内緒よ」
エルザは微笑んだ。いつになく素直な微笑みに見えた。
リィルはやっぱり俺も「父さん」って答えよう、と思った。
「エルザってファザコンだったんだな」
フィルがリィルにぼそりと呟く。それが運悪くエルザの耳に届いてしまった。
「そんなんじゃないわよ、真面目な話してるのよっ、バカ!」
エルザは思い切りフィルの頭をはたいた。フィルは叫び声を上げて椅子から転がり落ちる。
「兄貴、血ぃ出てる。治してやろっか」
父に教わったばかりの精霊術を試そうと、リィルは兄に手を伸ばした。フィルは慌ててそれを制した。
「やめろー。俺を殺す気かっ。自分で治すから良いっ。お前はいつかエルザを倒すときのために攻撃の術だけ磨いてろっ」
しまった、という顔をしてフィルは自分の口を塞いだ。余計な一言で墓穴を掘りまくる兄に、リィルは「ごしゅうしょうさま」と心の中で合掌した。
「ふぅん。フィルってば弟にそういう教育してるのね」
エルザは怖い笑みを浮かべて椅子から立ち上がった。「じょ、冗談に決まってるだろっ」と後ずさりながらフィルの顔が恐怖に歪む――
「あれっ?!」
隣に座るキリアが声を発した。リィルは現実に引き戻される。キリアの声には切羽詰ったような響きが含まれていた。
「どうかした?」
リィルはキリアを見る。
「サラとバートがっ!」
キリアが指さして叫んだ。リィルは湖面に浮かぶバートとサラのボートに目を移した。
しかし、それは広い湖の、どこにも見当たらなかった。
「え?」
目を凝らして見つめても、ついさっきまで湖で揺れていたボートの姿はどこにもない。消えたのだ。リィルとキリアが注意を逸らしていた一瞬の間に。
「バート! サラ!」
リィルは立ち上がって大声を上げた。しかし、反応はない。
「俺、行ってくる」
リィルはボートが繋いである桟橋へ駆けた。「私も」と、キリアも走ってついてくる。
「キリアは父さんに知らせてきて」
リィルは振り返ってキリアに言った。
「リィル一人で行く気? もし何かあったら――」
「遅いよ。もう何かあってるんだって。父さんに知らせないまま俺たち二人にも何かあったほうがまずいと思う」
「そりゃそうだけど、」とキリア。
「でも、エニィルさん帰ってきてなかったらどうするの」
「探して」
「そんな、心当たりないわよ」
「キリアにないのなら俺にもない」
リィルはきっぱりと言った。
「……わかった」
一瞬の逡巡の後、キリアは少々不満そうにうなずいた。
「エニィルさん連れてすぐに追いかけるから。できれば追いつくまで待っててって言いたいところだけど」
「状況次第だね。至急助けが必要かもしれないから」
「くれぐれも判断誤らないでよ」
「うん、努力する」
リィルの返事を聞いてキリアは駆け出した。振り返ってその後姿をちらりと見てから、リィルは残りの一艘のボートに乗り込んで、ロープを解いた。