北 へ 、再 び ( 3 )


 その日の夜。眠るために自分の部屋に戻ろうとしたキリアは、廊下でフィルに声をかけられた。
「キリアちゃん……。ちょっと良いかな」
「はい。何でしょう」
「ちょっと付き合って貰えないかな?」
「え? どこにですか?」
「夜の散歩」
 どきん、と心臓が音を立てた。断る理由が思いつかなくて平静を装って「良いですよ」と答えた。
 キリアとフィルは宿屋を出て、夜のメインストリートを歩いた。人影は全く無かった。フィルはしばらく無言だった。二人分の足音だけが響いていた。
 歩いているうちにキリアは段々冷静になってきた。リィルの兄フィルとはつい先日知り合ったばかりだった。何を図々しいことを考えていたんだろう、昨日の今日でなんてこと、ありえない。キリアはバートとリィルと結構な日数一緒に旅してきたけれど、未だに二人に対してそういう感情を抱いたことは……ないと思うから、多分。
「ごめんな、キリアちゃん」
 歩きながら、フィルが口を開いた。
「こんな遅くに……。でも、キリアちゃんとはもうすぐお別れだから。どうしても言っておかなくちゃと思って……」
「お別れだなんて……。一生会えないわけじゃないんですから」
「でも暫くは会えないからさ……。俺……キリアちゃんのこと」
 キリアはごくりと息を飲み込んだ。好きなんだ、とフィルが小さく続けた。
 男性に告白されたのは初めてだった。今までほとんど男性との付き合いがなかった、というのもあるが。しかし、宿屋を出るときに薄々覚悟していたことが本当に現実になってしまうとは。
 キリアは大きく息を吸い込んだ。
「ごめんなさい、私……」
「……好きな人がいる、とか?」
「そういうんじゃないんです。わかんないんです、そういうの……だから、ごめんなさい」
 それはキリアの心からの本音だった。
 男女のそういう関係――例えば、リネッタとウィンズムとか、サラとバートとか。そういうのをあたたかく見守るのは好きだった。しかし、自分が当事者になるなんて考えたこともなかったし、正直、つい先日会ったばかりのフィルが自分にそういう感情を抱くなんて信じられなかった。
「そっか……」フィルは軽く笑った。
「ごめんな、いきなり変なこと言って。忘れてくれ、な」
「ごめんなさい」
 それしか言えなくて、キリアはうつむいた。
「良いよ良いよ、フられることはわかってたんだ……」
 フィルは天を仰いで言った。
「ははっ、何考えてたんだろうな俺。万が一良いよって言われたら、リィルに留守番させて旅に同行してやろうとか考えてたのかもな」
 キリアはくすっと笑った。今更といった感じで頬が熱くなるのを感じた。
「あーでもこれでスッキリしたよ。やればできるじゃん俺……。ははっ、オヤジとリィルのこと……よろしくな」
「はい」キリアはうなずいた。
(――ごめんなさい、フィルさん)
 キリアはフィルに対して、本当にすまなく思っていた。フィルはきっと、もの凄い勇気を振り絞って言ってくれたのだろう。でも、自分は……
(私は、まだ……)

 *

 エニィルはベランダに出て星を見上げていた。星々はいつもの夜と同じように、優しく自分たちを見下ろしている。涼しい風が流れている。
(間に合う……だろうか)
 そう思って、エニィルは小さく息をついた。
 あの場では言わなかったが、残された時間はそう長くはない、のだ。限られた時間の中で、自分たちはどこまでできるのだろうか。
「お父さん。飲む?」
 振り返ると娘のエルザがグラスを掲げて立っていた。グラスは透明な液体で満たされている。
「酒?」
「ん、」
 エルザは右手のグラスを差し出してきた。エニィルはグラスを受け取る。エルザは左手のグラスに口をつけた。
「しばらく、お別れだなあ」
 エニィルもグラスに口をつけて、呟いた。しばらく、と口に出したとき、少し、心が痛んだ。
「そうね。……みんな一気にいなくなっちゃうと、さすがに少し寂しいかな」
「エルザも行きたかった?」
「私が行ったってねえ……」
 エルザはグラスの中身をもう一口飲みこむ。
「……お父さんって、似てるのよね」
 ふいに、エルザがぽつりと呟いた。
「……え、」
 エニィルはどきりとする。
「だから不安なの」
 と言って、エルザは暗い空を見上げた。
「似てるって、誰に……」
「アビエス」
「…………」
 エニィルは噴き出しそうになったのだが、娘は大真面目に言っているようだったのでなんとかこらえた。
「……眼鏡が?」
 と、エニィルは言ってみる。
「んー。あと雰囲気とか」
「そうかなあ……」
 エニィルは苦笑いを浮かべながら、酒に口をつけた。
「……だから、気をつけてね、今度の旅」
 と、エルザは言った。
「……『だから』?」
「じゃあ、お父さん。私そろそろお風呂行ってくるから」
 そう言って、エルザは笑顔で手を振ると、部屋の中に戻っていった。
「――……って、言われるのかと思って……」
 エニィルの小さな独り言は、多分エルザには届かなかっただろう。
 そういえば――、と、エルザについて唐突に思い出したことがあった。あれはいつのことだったか……。自宅でフィルと二人で酒を飲んでいたとき、酔ったフィルが「エルザってファザコンなんだぜー」と絡んできたのだった。そのときのフィルの語りの様子を思い出して、エニィルの口元は自然と緩んだ。

 *

 二日後の朝、エニィルとバートとリィルとキリアとサラの五人は、乗用陸鳥ヴェクタに乗ってリンツを旅立った。



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