北 へ 、再 び ( 1 )


「ファオミン……だっけ? まだ、生きてる?」
 自分の名前を呼ぶ女の声が聞こえてファオミンはゆっくりと目を開けた。薄暗い、じめじめとした空間だった。固い床に横たわっていた。
 鉄格子の向こう側で、見知らぬ女が灯りを掲げて立っていた。
 ファオミンはぼんやりとした頭で記憶を手繰たぐった。ピアン王を暗殺するためにリンツに向かい……待ち構えていたピアン王女に傷を負わせて……自らも傷を負い……毒で……
 ああ、自分は捕まったのか、とファオミンは思った。傷を負わせたピアン王女は、死んだのだろうか。
 見知らぬ女は格子越しに何かを差し出してきた。
「……?」
「私はどっちでも良かったんだけどね、エンリ君がどうしてもって言うから。あ、エンリ君ってのは知り合いの医者ね。彼が言うには、医者として、助かる手段があるのに見殺しにはできないって。たとえ敵でも。……ピアン王女を殺そうとした者でも」
「…………」
 殺そうと、という言葉が引っかかった。ということは、王女は、死んではいない……?
 女はファオミンの返事を待たずに語り続けた。
「サラちゃん……ピアン王女は、明らかに敵である貴女と、『話』をしようとしたんですってね。それで、ちょっと油断しちゃったのね。フフ、うちのピアン王女は強いわよ。アンタなんかにそう簡単に殺られるサラちゃんじゃないわ」
「…………」
 ファオミンは一方的に喋る女の顔をまじまじと見つめた。ショートカットの女性で、年齢は三十代くらいだろうか。差し出す右手には、小さな瓶が握られている。
「どうしたの? 要らないの? 解毒薬よ。まだ死にたくはないでしょう?」
「……わたくしは……」
 ファオミンは女をきっ、と睨みつけた。
「命なんて、惜しく、ないわ……! あの方の……枷になるくらいだったら、わたくしは、ここで、死を選ぶ……わ」
「……枷?」
 女は真顔で聞き返してきた。
「枷って何? まさか『クラリス』が危険を冒してあんたを助けに来るとか、そういう意味で?」
「……!」
 ファオミンははっとした。自分は『あの方』としか言っていないのに、この女はすぐに『クラリス』の名前を出した。この女は、一体……。
「そんなことするわけないじゃない、『クラリス』が。枷だなんて……。はっきり言って、クラリスはアンタなんか全く眼中にないわよ。だから安心して生きていれば良いわ」
「……随分と、余裕なのね……」
 ファオミンは自虐的に笑った。
「なあに、わたくしに精神的ダメージを与えに来たってわけ……? ユーリア……さん?」
 それを聞いてユーリアも笑った。……何故か、少し寂しそうに。
「んー。そういう思いも無くは無かったんだけどね……でもね。私はどっちかって言うと貴女の『同志』よ。それで、少しは楽しい話でもできるかなって思って来てみたの」
「……同志……。バカに、してるの……?」
「私は大真面目よ」
「フザケ、ないで……!」
 ファオミンは声を絞り出した。
「あの方は……クラリス様は、貴女を、迎えに来たんでしょう……!」
「うん、確かにね。でも、彼は私の為に来たわけじゃない」
「……え?」
「あの人が動く理由はね……たったひとつよ」
 ユーリアがそこまで言ったとき、遠くからひとりぶんの足音が近付いてきた。ユーリアは振り返る。
「バートっ」
「何やってんだよ、母親……!」
 ひとりの少年が灯りを手に早足でやってきて、ユーリアの隣に並んだ。彼はユーリアより頭ひとつ分背が高かった。
「バート……」
 ファオミンはユーリアが呼んだ名前を繰り返した。クラリスと同じ、黒髪の少年……。

 *

「何やってんだよ、母親……!」
 バートは母ユーリアがひとりで地下牢に入ったという話を聞いて慌ててここに来たのだった。地下牢には危険な女――リィルとサラを毒で苦しめた憎い女が捕らわれているのだ。
「彼女と、ちょっと楽しい話をね」
 ユーリアは余裕の表情を浮かべ、鉄格子の向こう側、床に座り込む赤い髪の女を見て言った。
 バートも女を見た。そして、少しの違和感を感じた。毒で弱っているからなのか、弱々しい雰囲気の……
「楽しい話……って。母親、コイツが誰だかわかってるのか?」
 バートは呆れた。
「エルザちゃん情報によると、ガルディア軍第六部隊の副隊長、ファオミンさん。そして噂によるとクラリスのことを――」
「父親を?」
「あ、何でもないの。今のは忘れて」
「?」
 バートは改めて女を見た。そして、違和感の正体に思い当たった。
「……お前、翼は……」
 異形の者の証である赤い翼を、この女は持っていなかった。そう言えば、クラリスが翼は消すことができる、とか言っていたような……。
「今のわたくしには、必要ないからよ……」
 女はバートをじっと見つめてきた。そして、目を細めた。
「……似ているわ……」
「え?」
「あの方……クラリス様に。ねえ、もっとこっちに来て……顔を良く見せて……」
「げっ何で! 気持ち悪い!」
 バートは背筋に寒いものを感じて思わず後ずさっていた。
「クラリス様、の……息子……」
「私の息子でもあるのよ」
 ユーリアは微笑む。
「貴方には……クラリス様の血が……流れているのね……」
 女はユーリアの言葉は耳に入っていないようだった。
「ああ。……忌々しいことだけど」
「……忌々しい?」
「でもアイツとは、きっちり決別してきたからな。首都で」
「……なんてことを、言うの!」
 ファオミンが叫んだ。バートはぎょっとしてファオミンを見た。
「貴方は、れっきとしたクラリス様の息子よ……! それを忌々しいとか、決別とか……なんてこと言うの……! こんなにも、似ているのに……」
「似てねーよっ!」バートは叫ぶ。
「いいえ! 貴方にはちゃんとクラリス様の血が流れてる!」
「そうかもしんねーけど、似てねーよっ、異形の敵なんかに……! 第一、俺は翼なんて持ってねーし!」
「そんなこと、ないわ!」
 え、とバートはファオミンを見た。
「貴方はクラリス様の息子でしょう……。『翼』なら、ちゃんと持っている、はずよ」
「……え、」
「まだ扱い方がわからないのね……。フフフ、わたくしが教えて差し上げましょうか……?」
「いらねーよっ!」
 バートは吐き捨てると、ファオミンに背を向けて歩き出した。胃の辺りがむかむかしてきた。俺に、翼? 扱い方がわからないだけ? ……冗談では、なかった。

 *

「私もそろそろ帰るわね」
 去って行ってしまった息子を振り返って、ユーリアはため息をついた。屈みこんで、小さな瓶を床に置く。
「解毒薬、ここに置いておくわね。……とりあえず、今は生きていてみれば? 死んじゃったら何もかも終わりよ」
「随分と、甘いのね……」
 ファオミンは息を吐いた。
「わたくしを生かしておいたって……何も、喋る気はないわよ、貴女たちに」
「今は、でしょ」
 ユーリアはファオミンに言うと、ランプを掲げて歩き出した。牢番の兵士に挨拶し、階段を上って外に出る。
 ピアン首都を脱出してきたユーリアたち――ユーリア、バート、エニィル、エルザ、フィル、リィルの六人は、とりあえず街の外れの小さな宿に部屋をとって寝泊まりすることになった。とりあえず、と言うのは、
「多分僕たち、近々、旅に出ることになる」
 とエニィルが言っていたからだった。
「そのときは……バート君、借りていっても良いかな?」
「どうぞどうぞ。いくらでもこき使ってやって」
 と、ユーリアはエニィルに答えた。
 宿屋目指して歩いていると、
「ユーリアおば……おねーさんっ」
 振り返ると、買い物袋を抱えたエルザが小走りに走り寄ってくるところだった。
「エルザちゃん」
「会って来たの? 例の女将軍に」
 ユーリアと並んで歩きながら、エルザが話しかけてきた。ええ、とユーリアはうなずいた。
「ガツンといじめてきてやったの?」
「そりゃあ、ね。敵討ちしないとね。リィル君とサラちゃんの」
 ユーリアは不敵な笑みを浮かべてみせた。



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