リィルはバートを探してピアン王宮内を歩き回っていた。今のピアン王宮は
バートが寝ているとユーリアに教えてもらった医務室は何故か
そんなことを考えながらひとりで王宮内の廊下を歩いていたリィルは、ある扉の前で、突然ぴたりと足を止めてしまっていた。
(え?)
扉の向こうの話し声が耳に届いたのだった。一瞬耳を疑う。……すごいことを聞いてしまったぞ、と思った。本当だとしたら、大変なことだ。どうする? どうしよう……そんなことを頭フル回転で考えながら呆然と立ち尽くしていると、扉が開いた。リィルは驚いて一歩後ずさった。
中からガルディアの軍服に身を包んだ二人――男性と女性だった――が現れた。二人ともリィルと目が合って立ち止まった。しまった、とリィルは思った。男性の方は見知った顔だった。赤い長髪に眼鏡をかけた――
(アビエス!)
リィルと目が合ってアビエスはにっこりと微笑んだ。
「おや。貴方は」
「知ってるの? アビエス」
女がアビエスを見て言った。女も赤い髪をしていた。ふわふわのウェーヴヘアが肩にかかっている。つりあがった目にきつい顔立ち。真っ赤に塗った唇。ガルディアの軍服に身を包み、腰のベルトには何本もの短剣を挿していた。
「ええ」とアビエスはうなずいた。
「『彼』には三人の子供がいると言ったでしょう。長女と、長男と、次男と――」
「じゃあ、もうひとりのエニィルの息子?」
女は甲高い声を上げた。
「何でこんなところに? アンタもしかして、今の聞いてた?」
「い、今の……というと?」
とっさにリィルはとぼけてみせた。でも、この女はどうか知らないが、アビエスは騙せないかもしれない。
「ま、どっちでも良いわ」
女は真っ赤な唇でにやりと笑った。腰の短剣を一本抜く。
「殺っちゃって良いかしら? アビエス」
「口封じ、ですか」
「そうよ。今の話聞かれたからには生かして帰せないでしょ」
「でも、息子が殺されたと知ったら、エニィルはますます口を閉ざすでしょうね」
「知ったこっちゃないわ」女は眉を吊り上げた。
「むかつくのよアイツ。カズナ様に向かってあのふてぶてしい態度! 何様のつもり? 息子二人いるんだもの、一人くらい殺っちゃえば良いんだわ。少しは思い知るでしょうよ!」
リィルは得体の知れない寒気を感じた。この女から発せられる、異様な殺気。向こうは二人、こちらは一人。簡単に殺られるつもりはないが……
(ちょっと軽率だったかな……しくったかも)
リィルは水の精霊を使おうと意識を集中させる。女は短剣片手に一気に間合いをつめてきた。接近戦は不利だ、とリィルが後ろに下がろうとしたとき、女は素早い動作で短剣を投げつけてきた。
「!」
リィルは短剣を避けようと身をひねった。自分ではかわしたつもりだったが、左肩を何かがかすった感触があった。ずきりと痛む。リィルは自分の左肩を見た。服が裂け、血が流れ出ている。でも大した怪我ではない――と思ったとき。
突然身体が重くなった。よろめいて両膝をつく。どきん、と心臓が大きな音を立てた。すぐに立ち上がろうとするが、視界がぐるりと回ってまた膝をついてしまう。自分の心臓の鼓動がやけに大きく、早く聞こえる。何故か息が上がってくる……
「フフフ……大丈夫ぅ?」
赤い髪の女が一歩一歩、ゆっくりと近付いてきた。顔を上げることすら辛くて目を閉じてうつむく。床に手をついて大きく肩を上下させながら、なんとか呼吸を落ち着けようとする。
「やはり良く効きますね、その毒は」
アビエスの声が聞こえた。
「ええ。わたくしの短剣でほんの少しでも傷つけられた者は、じわじわと身体が利かなくなり、苦しみながら確実に死に至る……」
「残酷ですね。止めは刺さないのでしょう」
「だって放っておいたって死ぬんだもの。止めさすのとどっちが残酷なのよ」
「さあ」アビエスはふっと笑ったようだった。
「ねえ、聞こえるぅ?」
女の声が間近で聞こえた。リィルは何とか目を開けて、きっ、と女をにらみ据える。
「知ってて何も出来ないって、辛いでしょう? ウフフ……じゃあ。わたくしは行ってくるわ。ピアン王にも同じ苦しみを味わってもらいにね。ウフフ……」
女は本当に可笑しそうに笑った。
「じゃあ、後は任せたわアビエス」
「任せるって」アビエスが聞き返す。
「好きにしちゃって良いわ、その子。可哀想だと思ったら楽にしてあげれば?」
女が遠ざかっていく足音が聞こえる。女の言ったとおりだった。リィルには女が去っていくのを止める力はなかった。悔しさで胸が熱くなる。
(サラ……、キリア……、みんな……!)
リィルはリンツのサラやキリアやピアン王、ウィンズムやリネッタやエンリッジ医師のことを思った。このままでは、リンツが……!
「行ってしまいましたね」
アビエスの声が聞こえた。
「さあ、どうします? お望みとあればすぐに楽にしてあげますよ」
「…………」
リィルは黙ったまま右手で左の袖の部分を引きちぎった。引き裂いた布で右手だけで器用に肩の傷をしばる。応急処置を終えると、リィルは静かに覚悟を決めて立ち上がった。まだ自分にできることはある。
戦意を失っていないリィルを見て、アビエスは目を細めた。
「私と
「それは買いかぶりすぎですよ……アビエスさん」
リィルは笑った。
そう、まだ自分にできることはある。目の前のこいつを振り切って、何とか父さんの元に帰るのだ。そうすれば、きっと父さんなら。
「では、君のその根性に免じて、ひとつ良い事を教えてあげましょう」
そう言って、アビエスは懐を探ると、小さな茶色の小瓶を取り出して掲げた。それを見てリィルは息を呑んだ。
「……それは、まさか」
「ファオミン――彼女の使う毒の解毒薬です。ガルディアの幹部クラスの者はもしものときのために全員所有しています」
「…………」
リィルはかえって警戒した。何故この男は、わざわざそんな情報を自分に教えてくれるのだろう。惑わされてはだめだ。あの茶色の小瓶は、注意をそちらに向けさせるための罠かもしれない。
「おあいにくさま」
リィルは微笑んで言った。
「悪いけど俺……自分の命よりも大切なものがあるから。そっちを優先させる」
アビエスを倒して、ましてや解毒薬を奪おうなんて考えてはいけない。アビエスを少しの間足止めして、全力疾走で父のいる小屋に帰る。それで勝ちだ。でも、自分の身体は、それまで保つだろうか。
そのとき。
「リィル?! どこだ?!」
リィルは自分の耳を疑った。廊下をこっちに向かって駆けてくる足音。自分の名前を呼ぶ声。
「バート?!」
「リィル!」
腰に剣を挿したまぎれもないリィルの親友の姿が、こっちに向かって駆けてくるのが見えた。
「バート、どうしてここに?」
リィルはこのタイミングでバートが現れたことが信じられなかった。
「なんかお前の声が聞こえて……。何やってんだ。大丈夫かその肩の怪我」
「バートこそ。何走り回ってんだよ。まだ完治してないだろ」
「そーでもねーぜ」
バートは剣を抜いて構えながら言った。
「お前の父ちゃんに治してもらったからな」
「父さんに会ったんだ。……もしかして同じこと考えてた?」
「エニィルさん呆れてたぜ」
バートは得意げにアビエスに向けて言い放った。
「ガルディアの治癒技術はまだまだだねって」
そんなんで得意になってどうするんだ、とリィルはつっこんでやりたかったが、無駄な体力を消耗したくなかったので我慢した。
「で、これ今どういう状況なんだリィル?」
とバートが尋ねてくる。
「お前が何かヘマしてアビエスに見つかったとか?」
「…………」
ほとんど図星だったのでリィルはけっこう傷付いた。でも落ち込んでいる時間はない。リィルはすぐさま立ち直って言った。
「バート……頼まれてくれないかな」
「ん? 内容によるけど」
「難しいことじゃないよ。俺は今から大至急父さんに会って伝えなくちゃならないことがある。だからアイツを足止めしておいて欲しいんだ」
リィルはアビエスを指して言った。
「ああ。良いぜ」あっさりバートは引き受けた。
「アイツ父親より格下なんだろ? 楽勝だぜ」
「別に勝たなくても良いけど……うーん、あとのことは兄貴にも任せるか……」
リィルは呟いて、大きく息を吸い込んだ。少しの間力をためて、意を決して。
「じゃ、よろしくバート」
一声投げて、リィルは廊下を蹴って駆け出した。